松山千春新譜~一輪のバラ

 DSCN2875大好きな松山千春さんが、新しいシングル「最後の恋、アルバム『生きている』を11月6日に出されました。相変わらず歌唱力は抜群ですね。自分でも天才だと言っておられますから(笑)。これで通算72枚目となるシングル「最後の恋」は、彼の真骨頂とも言える“女性の言葉で別れを歌う”フォークの名バラードで、ラジオのレギュラー番組『ON THE RADIO』で、ギター一本で弾き語りを披露し大反響となった楽曲です。そして『ずうっと一緒』以来三年半ぶりとなる通算37枚目のオリジナル・アルバム『生きている』には10曲が収録されていて「最後の恋」はシングルとは別バージョンが収録されています。松山千春のオフィシャルサイトでは、シングル「最後の恋」、アルバム『生きている』より全曲の試聴が開始されています。⇒コチラ  松山千春コンサート・ツアー2013「生きている」」全国23ヶ所27公演で行われます。デビューして27年目、いまなお全速力で走り続ける孤高の実力派フォークシンガーです。プロモーションビデオ(PV)も公開されました。

 ある人から、こんな言葉を聞きました。「プロになりたいのなら、百回やれ 一流になりたいのなら、五百回やれ  超一流になりたいのなら、千回やれ」 一流と三流の差は、決して生まれ持った能力の差だけではありません。努力をコツコツと日々続けていくのは並大抵のことではありません。しかし、努力を根気強く続けていけば、どんな人の前にも「努力の道」は開かれているものです(必ずしも成功を意味はしないが)。このことを、決して忘れてはならないと思います。努力した人が成功するとは限りませんが、成功した人はみな努力した人たちです。これに関して、松山千春さんの、三流、二流、一流、超一流の定義は、コンサート会場では有名です。

 人間に「三流」から「超一流」まである。全く期待されない「三流」の人間。期待はされるが、それに応えることのできない「二流」の人間。周りから期待され期待通りの活躍をしてみせる「一流」の人間。そして期待され、その期待以上のことを見事にやってみせるのが「超一流」の人間である、と。そして続けて、俺は「超一流」の歌い手である、と自信満々。

rose このような自信過剰(?)発言を聞くと、イヤな奴と思われるかもしれませんので、松山千春さんのステージで、本人に寄り添うように置かれた一輪の真っ赤なバラの話をします(以前にもお話ししました。映像もコチラです)。あの鈴木宗男さんを擁護して嫌われ、スキンヘッドの強面の風貌で恐れられる彼のイメージからは、窺い知れない亡き恩人竹田健二さんとの秘話が隠されています。以下は、鈴木宗男さんのブログからの抜粋です。

 千春本人が振り返る。「竹田さんとの出会いは最悪だった。とにかく恐かった。一緒に仕事をするようになっても、すごく厳しくて、よく怒られた。でもそれも、いま思えば、優しさだったんだと思う」千春(当時19)と札幌STVラジオのディレクター竹田健二さん(当時34)が出会ったのは75年4月。北海道足寄町のアマチュアシンガーだった千春は「全国フォーク音楽祭」帯広大会に出場し、高校時代に作った『旅立ち』を歌った。その審査員が竹田さんで、新人発掘で全国に名を知られた仕事人だった。歌い終わった千春に対する批評は、ひとこと、「ギターが悪いな」ギターは高校時代にバイトして買った5千円のもの。鼻っ柱の強い千春はすぐさま食って掛かった。「俺はギターの品評会にきたんじゃない。歌はどうだったんですか、歌は」竹田さんはそれに答えず、「松山君、コピー曲を歌ってくれ」。千春はしかたなく、風の『22才の別れ』を歌った。竹田さんはそれっきりで、千春は落選を確信した。前年の同じ大会でも『旅立ち』を歌って落ちていたし、なにより自分の歌が認められていないみたいで癪だった。ところが千春は合格し、札幌で開催された全道大会に進んだ。ニッカーボッカーにサングラス姿の千春が、肩で風を切ってステージに登場するなり、会場の5千人が爆笑した。千春は相変わらず突っ張っていた。審査員の間では「歌はいいが、態度がでかくて生意気だ」と言われ、結局落選した。

 「松山、ちょっとしたらラジオで使うかもしれない。そうなったら出てこれるか」千春が帰る間際そう声を掛けてくれたのは、意外にも、あの竹田さんだった。しかし、札幌から電車を乗り継いで片道8時間以上かかる山あいの田舎町に住むアマチュアシンガーにとって、ラジオ出演は夢のまた夢。期待などしていなかった。千春は足寄でまた、普段の暮らしに戻った。父親は足寄のローカル新聞を発行、たった一人で切り盛りし、長男の千春は集金の手伝いをしていた。しかし実家は貧乏のどん底で、新聞の収入だけでは食べていけず、母親が工事現場の出稼ぎをして家計を助けていた。冬はすきまから雪が吹き込み、家の中に吹き溜まりができるようなボロ家。恥ずかしくて友達を家に呼べなかった、と笑う千春にとって歌が心の支えだった。小学生の時、公民館で聞いた岡林信康の歌に感動しフォークシンガーを夢見た若者は、働きながら現実に埋もれていく―。が、そんな千春の元に突然、電話があったのだ。「新番組やるから、おまえのコーナーもたないか」あれからちょうど1年。竹田さんは周囲を説得し、番組を用意してくれていた。ラジオとはいえ、デビューもしていない無名の新人を抜擢することなど、前代未聞のこと。舞い上がる千春に対し、竹田さんは厳しい条件をつきつけた。「君のコーナーは15分間。毎週2曲、新曲を発表する。1ヶ月で8曲。半年で48曲。アルバムが四枚できる計算だ。千春、どんどん曲を書かなきゃだめだぞ」ラジオ出演が始まり、千春は夜行列車で足寄と札幌を往復した。その間、千春は精力的に曲を作った。と同時に、千春と竹田さんの二人三脚の日が始まった。竹田さんは荒削りながらまっすぐな千春の歌声に魅せられていた。最初に会った時の「ギターが悪い」という表現は、「歌は申し分ない」という最上級のほめ言葉を意味していた。夏が過ぎ、曲が貯まったのを見計らって、竹田さんは会社に千春のレコーディングを申し出た。しかしSTVラジオでは大反対があった。「あんなどこの馬の骨かわからんやつをレコーディングして、どうなるんだ。赤字を作るだけだろう」「深夜番組一本しかやっていないし、若造が調子に乗るだけだ」などという意見。それに対し竹田さんは、「それなら、俺の退職金前借りさせてもらいます」と、会社を説得したという。その熱意が実って、ついに東京で念願のレコーディングが叶った。本当の勝負となるデビューシングルのA面は、さんざん悩んだ末、「俺と千春が出会った最初が、『旅立ち』だ。これでいこう」という竹田さんのひと声で決まった。77年1月、リリースされた『旅立ち』が大評判となり、道内のラジオのヒットチャートでは一位を獲得。千春は瞬く間にスターへの階段を駆け上がっていく。そして竹田さんは変わりなく、千春を陰で支えていた。周りから「恋人よりも真剣につきあっている」と言われた。その一方で、竹田さんは千春の巣立ちを予感していた。あと2、3年もすれば千春は足寄から全国へ羽ばたくだろう。その時ステージの袖で千春の歌う姿を見ていたい、そう心から願った。6月に出したファースト・アルバムも好調で、8月には道内7カ所を回るデビューコンサートも決まった。多忙な合間を縫って、竹田さんが千春を連れて行ったのは札幌の楽器店だった。「千春、残念なんだけど、楽器っていうのは声と違って、値段が高いものほど音がいいんだ。コンサートをやるんだから新しいギターでなくちゃな」竹田さんは出世払いだ、と言い、マーチンを買い与えた。「竹田さん、もうギターのせいにはできないです」。二人は大笑いした。

 そして迎えたデビューコンサートで、千春は札幌厚生年金会館を超満員にした。公演終了後、竹田さんはしんみりと語りかけた。「おまえをこの世界にひきずりこんだのは俺だから、一生つきあっていこうな。俺は一介のラジオ局のディレクターだけど、おまえがどうなっても最後まで責任持つ。俺のできることはなんでもする。喧嘩しながら、やっていこう」8月26日、千春は竹田さんに電話を入れた。「明日の函館公演来てくれますよね」「わかった。ところで、今からニッポン放送の人と会うんだけど、オールナイトニッポンでやってみないか」「全国区じゃないですか」「ラジオはおまえの個性が生かせる媒体だ。やってみたらどうだ。明日午前10時にSTVにきてくれ。ま、その時ゆっくり話そう」

 ところが次の朝、STVに行った千春に知らされたのは、竹田さんの突然の死だった。急性心不全、享年36。終始元気な声だった最後の電話から数時間後のことだったという。信じられなかった。「コンサートはやめだ」と泣きじゃくる千春。だが竹田さんの声が聞こえたような気がした「千春、甘っちょろいこと言うな、お前はプロなんだぞ」その夜、千春はアンコールで『旅立ち』を、涙を流し声をからして歌った。
私の瞳が  ぬれているのは  涙なんかじゃないわ  泣いたりしない
 この日がいつか  来る事なんか  二人が出会った時に  知っていたはず
 私のことなど  もう気にしないで  あなたはあなたの道を  歩いて欲しい
                             (「旅立ち」松山千春 作詞・作曲)     

竹田さんは千春のために東京の仕事を取り、北海道を離れたがらない千春の旅立ちを準備していた。竹田さんが生前思い描いたように、千春は全国区のスターとなった。デビューから30年余、千春は竹田さんを赤いバラに見立てて、ステージに飾っている。最後に千春本人が語る。「今もずっと感謝してます。俺はこれまで長くやってきたけど、曲作りやコンサートの時なんか、竹田さんに、これでいいですか、って問いかけることもある。ただ、それに対して答えが返ってこないのが、さみしい」 そして千春は、真っ赤なバラの理由をこう語った。「ギター一本でステージに立つと、なんとなくさみしいから。いつもそばにいて、見守ってくれているような気がするんだ」亡き竹田さんとの事は松山千春さんからも良く伺っていた。人生の出会い、巡り合わせ、不思議なものである。竹田さんがお元気でおられたら、大きくなった、あの足寄から出てきて日本を代表するトップシンガソングライターになった千春さんに、何と言ってくれるだろうか。「千春これからだぞ、千春の出番は。千春、これからが千春の本舞台だ」と竹田さんが言っているように私には聞こえてくる。今、日本人が失いかけている「情(じょう)」「義理堅さ」を忘れていない千春さんに日本人の心を見た。私自身、千春さんのお陰で今日ある者として、「心友(しんゆう)」に心から感謝するものである。久し振りに胸が熱くなる人間関係に触れ、勇気や感動を戴き、千春さんありがとうと、「大空と大地の中で」を口ずさむ。  ―鈴木宗男ブログより(下線は筆者)

 「竹田さん、俺の生き方間違ってないですよね、これでいいですよね。この歌どうですか?」 このように松山さんは、ステージ上で天国の竹田さんと会話をしながら、あの素晴らしい唄を届けてくれているんですね。数々の楽曲の中で、私の一番好きな松山千春の歌「大空と大地の下で」です。 北海道の広大な大地と、雄大な自然を感じることのできる壮大な曲ですね。

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