辛島美登里さんの学生時代

 musicBS11の番組「Net’s Professionals~ハートフルメッセージ」(毎週日曜日夜10時―)では、“笑顔の連鎖をより多くの人達へ”音楽を通して笑顔の輪を広げていく、をテーマに、二胡奏者・賈鵬芳(ジャー・パンファン)さんが番組ホストを務辛島め、毎回スタジオにゲストアーティストをお招きして、楽曲はもちろん歌のコラボレーションの中から、ここでしか見ることができないゲストアーティスト達の新しい世界観を表現しています。この二週間にわたって、私の大好きな辛島美登里(52歳)さんがゲストで、「サイレント・イヴ」「手をつなごう~ひとりぼっちじゃない~」「あなたの愛になりたい」「たしかなこと」「桜/CHERRY BLOSSOMS」などを、透明感ある歌声で歌い上げました。洗練された歌詞で、切ない女心と様々な恋愛の機微美を歌い上げて、多くの女性から支持されている辛島さんは、来年でデビュー25周年を迎えます。出身地である故郷・鹿児島への想いを語り(薩摩大使)、曲作りへのこだわりを披露しました。番組の最後に「音楽とは?」と問われ、彼女は「自分自身を写す鏡で、刻々と変わっていく」と述べました。さて、今日は10月18日に書いたことの続きです。

star,favourite,bookmark 生まれも育ちも鹿児島の辛島さんは、五歳からピアノを習い、小学校1年生の時に将来の夢を聞かれ、同級生たちが「ピアノの先生になりたい」と答えるのに対して、彼女は白いドレスを着て人前でピアノを演奏する姿をイメージしていたといいます。優等生だった彼女は、先生の言うことには「ハイッ」と元気よく答え、学級委員も務めました。小学校の頃は図書館の常連で、ディズニー、名作全集を読んでいました。鹿児島大学教育学部附属中学校までは、あまり勉強しなくてもいいところまでいけてたので、子供ながらに鼻高々のところがありました。が、高校受験に失敗して一浪、初めて味わう挫折です。『キミはもういらない』と拒絶されてしまったような感覚だったと振り返ります。地元県内随一の進学校鹿児島県立鶴丸高等学校に入学しましたが、自分の力以上に背伸びしたために、毎日目の前にある宿題をこなすので精一杯で、どんなに頑張っても真ん中くらいの成績しかとれませんでした。「ああ、私は、人より倍努力しないと、並みになれないんだ」と思ったそうです。一歳年上であることもコンプレックスにあったと回想します。勉強ばかりで、あまり明るい高校生活ではなかったけれども、真面目に努力して誠実に生きるしかないっていうのを叩き込まれた時代だったと言います。1日7時間授業で、毎月試験があって、その夜ぐらいしかホッとできなかったそうです。午前三時に起きて4時間勉強。通学するバスの中で、英語の単語帳をくったり、休み時間に予習をしたりの毎日でした。部活動をする余裕はなかったし、五歳から習っていたピアノもやめてしまいます。アウトロー的な、否定的な考え方に憧れるようになります。クラスに思春期にしては覚めた考え方をする男の子がいて、好きという気持ちとは別に、面白い子だなって思っていました。その子が読んでいたのが安部公房の『砂の女』で、その厭世的な世界に魅せられたといいます。「早く大学に行くぞ、遊ぶぞ」と思っていたそうです。数学や化学が好きで薬学部志望でしたが、物理でつまづいてあきらめました。奈良女子大学家政学部を選んだのは、東京の大学に行っていた四歳年上の兄に「お前には東京は似合わない。関西に行きなさい」と勧められたからだそうです。女友達がたくさん欲しかったこともあり、女子大を選びました。大学に入って最初の二年間は、四人一部屋の寮生活。地味で化粧気のない女の子だったそうです。

 初めての合コンが立命館だった。適度な軽さがあって、大らかでね。一番楽しかったな。当たりでしたね(笑)。私の大学時代って、自分が描いていたキャンパス・ライフとほど遠いものだった。ちょうどマスコミで女子大生が脚光を浴び始めた時期で、雑誌の『JJ』とか読むと、テニスラケットを持って他大学の学生と交流を深めるとかね、彼とデートするならココみたいな記事が載ってて、いいなぁって思ってた。奈良じゃなぁ、こんなハズじゃなかったなって(笑)。女子大だったでしょ。女のコばかりの世界に初めて入って、友達を作る難しさを知りましたね。特に私は寮に入ってたから大変だったけど、いい勉強にはなった。デビューして女性の気持ちをうたうようになった時に、そのへんの微妙な感じとか、すごく役に立ってます。いい経験をしました。(辛島談)

 高校と違って、猛勉強しなくてもいい。「今日も何もしなかったなあ」と、毎日ぼんやり過ごすうちに、「このままでいいのか…?」と不安が募ってきました。将来は、普通に就職して、平凡な結婚をして、子供を産んで、と思っていましたが、子供に「こんなお母さんでも挑戦した頃があったのよ」と胸を張って話せるような思い出を作りたい、という気持ちが次第に膨らんできます。それでピアノを再開し、コーラス部に入ります。学校の練習室で一人でピアノを弾いていました。その頃から曲作りにも熱を入れ始めます。1983年、大学三年生のときに、思い切ってヤマハのポピュラーソングコンテスト(ポプコン)に出場して、グランプリを獲得します。勉強はあまりしなかったけれど、時間をかけて自分自身をしっかりと見つめることができた、と回想しておられます。高等学校の家庭科教員免許もとっておられ、テレビ朝日の「ミュージックステーション」の常連だった頃は、タモリから敬意を込めて「辛島先生」と呼ばれていました。

 特に私ははやりのテーマを歌っているわけでもないし、それなら自分が生活していて、”いいな”と思ったことをそのまま曲にして伝えていければいいんじゃないかなと思うんです。私にできることは本当にみんなに近いところにて”辛島はこんな風に感じていたんだな”とか”自分だけじゃなかったんだな”と感じてくれればうれしいですね。

 自分の中で、ちょっと変わった言葉だとか、朝、窓をあけたときに気持ちよかったとか、そういう自分の中の体験を一番わかりやすくみんなに伝えて行きたいと感じますね。だから、もし相手の人が悩んでいるときには、こうしたほうがいいんない?っていうものを自分の中で経験したりとか,経験の中で得てきたものは歌えるけども、何とかであるべきだとか、人生ってやつはとか、そういう言葉で飾ろうとか、枠組みを付けていこうとかいうのはないですね。私に言えるのはこれだあけだよ、あとはあなたが考えて、自分で行動する方がいいんじゃないかみたいな所で、いつも書いてますね。

 「よし、上京してやってみよう」という気になり、両親も二年間という期限付きで仕送りをしてくれることになりました。上京して二週間で十曲ぐらい曲を作ります。その中の一曲が「ツバメ」です。未熟な技術を磨き直すために、アルバイトをしながら、ヤマハ音楽院に入って勉強し直します。両親との約束の二年が来ても、全く曲が採用されません。半年待ってもらって夏休みに帰省した際に、父が「じゃあ今晩、今後の話をしよう」と言ったちょうどその日の午後、東京から電話がかかってきて「曲が採用された」のです。永井真理子さんの「瞳・元気」という曲でした。以降、斉藤由貴、永井真理子、夏川りみ、観月ありさ、森口博子など多くの歌手に楽曲を提供します。その後、人に楽曲を提供する立場から、いきなり人前で歌うことになった彼女は、歌の訓練を受けたこともなく、のどを痛め、声の出し方にも迷走します。ボイス・トレーナーの先生にまず言われたことが「姿勢が悪い!」でした(いつもピアノを弾いていて肩が丸くなり顔が前に出ていた)「あなたは、必要以上にへりくだりすぎている。もっと凛としていなさい!」「あなたの歌は控えめで切ない女性が出てくるけど、歌い方までそうする必要はないのよ」 以来、彼女はいつもどんなときでも、今持っている全部の力で凛として歌おう、と決意します。北極星の光を探すみたいに、上を見つめて」 彼女の原点となった曲「ツバメ」(1990年)です。

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