母の思い出

 とある職業の労働条件です。職種は「現場総監督」でとても重要な仕事です。責任はとても広範囲で流動的です。立ち作業と屈んだ姿勢で作業をし、とても体力を必要とします。原則24時間の週7日間勤務。年間365日の休みなし。交渉力、交際力が求められ、医学と金融学と栄養学に通じている人物でないといけません。クリスマス、正月では仕事量が増えます。給料は0円です。現実にこの職に就いている人が現在も数十億人います。この世で最も過酷な仕事です。答えは?そう「母」です。今話題になっている「面接シーン」の動画をご覧ください。最後まで見るとチョット心が温まります。

母の日のカーネーション キャロライン・ケネディ駐日大使「母の日」に寄せてビデオ・メッセージを投稿しています。「世界で一番大切な仕事」であり、自身の母親に関して「勇気と責任感のある女性」だったと回想し、母と祖母から「母親、女性として大きな影響を受けた」と語っています。私は彼女の額のしわに母の誇りを見る気がしています。

 私の母が亡くなったのは、平成10年7月19日でした。77歳でした。当時の学級通信「あむーる」(大田高等学校、1年6組)から転載してみます。

 公私混同をお許しいただいて、今週は母のことを記す。7月19日(日)午後5時40分大田国立病院で母は息をひきとった。4月に転勤してきたばかりの入学式の翌日、家の前で倒れ 救急車で運ばれた。そのとき医者に呼ばれて宣告されたのが「あと1ケ月の命です」。身体中 に癌が転移してもうボロボロの状態であった。あれから約3ケ月頑張って生きてくれたことに 感謝したい。毎日毎日が貴重な時間の連続であった。「あ~今日も一日神様有り難うございよ した」の繰り返しだった。朝5時半に病院へ朝食を届け、学校を終え5時半に夕食を運ぶとい うのがこの間の日課でもあり励み・楽しみでもあった。その間たくさんの人たちにいろいろ優 しくしていただいて、本当に有り難かった。校長先生には「学校のことはいいから時間の空い た時には病院へ行ってあげなさい」と言っていただき本当に嬉しかった。同僚の先生方の優し い心遣いも大いに励みになった。おいしいものをたくさんいただいた。病室で涙を流しながら 食べたことも何度も。そのたびに母は「いい学校へ転勤してきたね。もう1回元気になるよ」 が口癖であった。その母ももういない。遺体を抱いて家に帰ったときのあの重さを絶対に忘れ ることはないだろう。
 3年前松江日赤へ入院したとき、胃に4カ所癌が発見された。まだ早期だから内視鏡手術で よくなるからと強く手術を勧められたが、母は頑として首を縦に振らなかった(病名は最後ま で伏せていたが。あれから3年、一緒に松江中のおいしい料亭を食べ歩き、好きなものを買 いまくったのもよい思い出である。悔いの残らぬ生涯を生きてもらいたかった。大田に来るま で、正直ここまで悪くなっているとは思いもしなかったが、引っ越しでかなり身体に無理を強 いたのを心苦しく思っている。
 この1週間は言葉も不自由になり、食べ物も受け付けなくなっていた。お腹が腹水でパンパ ンに張り、足は水膨れではれあがっていた。息をするのも苦しいのだろう、よく「起こして」 と哀願するのだった。ベッドの上で起こしてやると、少しは楽になるようで、しばらくは ボーッとしているのだが、また苦しくなりパタンと倒れてしまう。薬の副作用で訳の分からぬ ことを口走り、自分の息子が分からぬこともあった。2度ほど外泊許可で家に連れて帰ったこ ともあったが、苦しさからか夜まで持たず、病院へトンボ帰りであった。僕が病院へ行くたびに「学校に迷惑かけないように早く帰れ」が口癖で、どうしても泊まらせてくれなかった母も、最後の1週間は何も言わずに一緒に病室で過ごさせてくれた。医者も元気で息をしていることが不思議でならないと言い、「覚悟だけはしておくように」と釘をさされていた。最後に痛み止めの注射を打ち眠らせてもらった時には、血圧も急降下し「これでもう目が覚めないかも」と宣告を受けた。それでもなんとか目覚めたときにはただただ神に感謝するばかりであった。が、苦しさを止めるためにはまた注射で眠らせるしか手がなく、4回ほどその繰り返しで、そして薬が切れ、もうこれ以上注射を打つことはできないと言われ、親戚一同みな集まってくれ最後の別れをした3時間後安らかにスーっと息をひきとった。手をしっかりと握り、精一杯呼びかけるのだが、答えはない。息を引き取る30分前に何か書いたそうで口を一生懸命動かしているのだけれど、何を言いたいのか分からない。「…か?」と問いかけても首を振るばかり。一体母は何を書いたかったのだろうか。そばにいた母の妹は「有り難う」と言っていたのだと思うと後で語った。苦労ばかりかけ通しで、親不孝の限りをつくしてきた僕にとってこ、何の恩返しもできないまま母を見送ることになったことが悔しくてならない。火葬場でお 骨を拾いながら母の身体がたったこれだけの骨になってしまったのかと思うと、涙が止まらなかった。もうあの国立病院の坂を登ることもできないかと思うと、なんだか心にポッカリと穴があいたようでもある。親戚も帰り、夜二人きりで遺影を前に話しながら、やりきれずに涙する毎日が続いた。その間不思議と食欲もなく、睡眠もとれないから何度もフラフラと倒れそうになったけれども、初七日が終わるまではと、頑張ってきた。当分は忘れることはできなさそうだが、それでも何とか物が食べれるようになったから大丈夫だろう。転勤そうそういろいろとご迷惑ばかりおかけした。母の遺志は「学校で立派な仕事をせよ」だった。大田高校の生徒を今までにないような素晴らしい生徒に育てることが残された僕の使命と思い、全力を尽くそうと思う。沢山の先生方、生徒諸君、保護者のみなさんに励ましていただき勇気づけられた。厚くお礼を申し上げたい。母一人子一人で育った僕は、とうとうひとりぼっちになってしまったが、楽しかった母との思い出を胸にしょって、強く生きていきたい と思う。どうかこれからもよろしく。★★★★★★(「あむーる」1999年7月27日号より転載)

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