昨日は「原爆ドーム」の話でした。今、松江北高2年生の「英語C」の教科書では、ドイツのドレスデン爆撃の話を読んでいます。「戦争を早く終わらせるために」爆撃が行われたというのは、広島・長崎に人類史上初めて原爆が落とされた理由と同じなんですが、果たして本当にそうなんでしょうかね?「原爆ドーム」の話をしながら、問題提起をしたところです。生徒たちには「ナガサキピースミュージアム」の話もしました。
昨年9月、「長崎ピーススフィア貝の火運動」も20周年を迎えました。1995年にさだまさしさんが提唱して生まれたこの運動を始めた当時、「夏 長崎から」という平和コンサートを毎年さださんはやっておられたんですね。広島に原爆の落ちた日に長崎で歌うということに意味があるんじゃないか、という長崎人らしい平和アピール。拳を振り上げて恨み言を言うのではなくて、広島の日に長崎で歌うというだけで、伝わる人には何か伝わるだろうという、今は亡き西岡武夫(にしおかたけお)先生の提案でさださんが動いたのです。戦後50年を迎える2年ほど前に「長崎人として、戦後50年をどう迎えるんですか?」と記者に聞かれたさださんが、長崎の友人らと相談して何かなすべきではないかと、戦後50年の節目に始めたのが「貝の火運動」でした。長崎に「ピースミュー
ジアム」を造ろう、それも原爆資料館のある「平和ゾーン」と呼ばれる地域ではなく、ちゃんぽんを食べに来た、グラバー邸だけ見に来た観光客の身近なところに、平和を考える「どこでもドア」のようなものが造れないだろうか、と発想したのでした。最初は景気よく2億円で造ろうと言っていたのですが、一人千円の募金でそんなにお金が集まるわけはなく(ここら辺の募金の紆余曲折・苦労話・問題点に関しては「ウィキペディア」が詳細に書いています⇒コチラ)、それでも8千万円弱集まった段階で、長崎県から土地を拝借して、古市徹雄(ふるいちてつお)先生が設計を、故福田繁雄(ふくだしげお)先生がモニュメントを造ってくださいました。狭い狭い土地で、県から撤去しろと言われれば撤去しなければいけないんですが、コン
クリートで造りました。できてしまえばもうこっちのものだという考えですね(笑)。最初は傍らに公衆トイレがあり、バス停もあり、埃は多いし、「なしてこげん所しか貸してくれんとやろか、ケチ!」と県知事さんに苦情を申し上げたら、「実はこれから整備計画があって、ここにおったらよかことの起きるけん、我慢しときなさい」と県知事。それを信じていたら、それは見事な観光港が整備され、周りには芝生まで敷かれ立派な公園が完成しています。さださんは今は、心の中で長崎県に手を合わせているそうですよ(笑)。(「まさしんぐWORLD」Vol.234による)
昨年の5月にも、私はここを訪れています(もちろん無料です)。ボランティアの人々に支えられながら、完成してから12年が経ちました。「あなたの大切な人の笑顔を守るために何ができますか?」という問いかけを永遠に続けながら、この世界で最も小さい平和祈念館「ナガサキピースミュージアム」(名誉館長 原田泰司)を見つめています。
ミュージアムの建物の寄り添うように、五線譜のモニュメントがそびえたっています。これはグラフィックデザイナー故・福田繁雄先生の「宙(そら)へ」(2004年、九州地方を襲った台風の暴風により、高さが約10メートルという高さのため、一度曲がってしまいましたが、現在は修復され固定されています)というタイトルの作品です。さださんが「何故、「五線に音符」がモチーフなのですか?」と尋ねると、福田先生は「平和じゃ無くなる時、真っ先に奪われるのは音楽だからだよ」と答えた、といいます。❤❤❤