「新書大賞2016」を取った『京都ぎらい』(朝日新書、2015年)が売れていますね(18万部突破)。「京都にはいやなところがある。この街のことは好きになりきれないでいる」 筆者は国際日本文化センター教授の井上章一さんです。風俗論・建築論などでよく知られた学者で、1984年『霊柩車の誕生』でユニークな研究者として頭角を現し、1986年『つくられた桂離宮神話』でサントリー学芸賞を受賞しました。京都生まれで京都大学卒、関西を代表する文化の論客です。他地域の人から見ると、「生粋の京都人」に見える井上さんが、なぜ「京都の街を好きになりきれない」なのか?京都には中心部の「洛中」と、周辺の「洛外」があります。本物の「京都人」を自負できるのは「洛中」育ちだけ。「洛外」出身の筆者は「偽・京都人」にすぎないというのです。同じ京都の中でも、ことあるごとに一段下に見られ、小馬鹿にされてきた、というのが井上さんの「ひがみ」です。たとえばまだ若いころ、現在は重要文化財になっている有名な杉本家住宅の九代目当主、故・杉本秀太郎氏を洛中に訪ねたときのこと。「君、どこの子や」と聞かれ、(京都市内西方の)「嵯峨から来ました」と答えると、杉本氏は「昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥(こえ)をくみに来てくれたんや」と懐かしんだ。要するに、杉本家の糞尿の回収作業をしていた地区の子か、「田舎の子なんやな」というわけです。井上さんは、初対面の杉本氏にいきなり「肥くみ」と一発かまされ、落ち込んでしまった、と述懐しておられます。
本書にはもう一人、洛中の優越ぶりを語った人として、故・梅棹忠夫氏が出てきます。昔話を聞こうと、西陣育ちの梅棹氏のところにおもむいたとき、「先生、嵯峨のあたりのことは、田舎やと見下しはりましたか」と尋ねると、大先生はためらいもなく「そら、そうや。あの辺は言葉づかいがおかしかった。僕らが中学生ぐらいの時には、真似してよう笑おうたもんや」。井上さんは戦後育ちなので、もはやこの地域特有の「訛り」はありませんが、昔は「言葉づかい」で区別され、笑いものにされていたのかと悔しい思いをした、と述べておられます。
杉本氏は、フランス文学の大家でエッセイストとしても知られ、読売文学賞や大佛次郎賞を受賞している、日本芸術院会員。梅棹氏は文化人類学者としてあまりにも有名で、国立民族学博物館館長などを歴任された方です。ともに学者としてずば抜けた一流の存在で、当時の井上さんからすれば仰ぎ見る碩学ですね。「同じ京都出身・京大育ち」と親近感を持っていたはずの井上さんにとって、そんな二人から面と向かって「洛外か」「田舎者やな」とあからさまに見下された体験は、大きな心の傷になったようです。「金輪際、京都人であるかのようにふるまうことは、すまい」「洛外の民として自分の生涯は終えよう」―そう決意して生きてきた証が本書、というわけです。京都人の黒い腹のうち、千年の古都のいやらしさを残さず暴露しています。単なる「ひがみ」の本とも取れなくはありませんが、日本人の思考パターンを論じた「文化論」として、読書界での評価は高いようですね。
さて、「京都ぎらい」ということで、私の頭にすぐ浮かぶのは、あの推理小説界の大御所・西村京太郎先生の著作の中に、しばしばそのような「意地悪」な京都が描かれていることでしょうか。西村先生は病気療養のために、今の湯河原に移られる前は、京都に20年もの長きに渡って住んでおられましたから、心底からの実感だろうと思われます。私はメモを取りながら西村先生の著作を読んでいます。
山村美紗(やまむらみさ)さんが亡くなられた後に、西村先生は山村さんの自伝的小説を2冊出しておられます。『女流作家』(朝日新聞社、2000年)と『華の棺』(朝日新聞社、2006年)の2冊です。これが当時の山村さんと西村先生を囲む環境を知るのに貴重な資料で、とても面白いんです。以下に引用するのは、『女流作家』の中で、主人公に語らせた西村先生の「京都観」です(下線は八幡)。
学生時代は、よく旅行したが、結婚してからは。出歩くことが少なくなった。京都というところは、革新と保守が極端に現れる町である。それに、意地悪な町でもある。華やかに社会活動をしている主婦がいると、表だっては「ご立派な方」と賞めるのに、陰では「京都の三悪女」と批判するのだ。(p.11)
「ご自身もナンバーワンと思いやすのと違いますやろか」と、女将さんがいう。電話の向こうで、多分、苦笑しているのだと、夏子は思った。京都の女性は、おだやかに喋るが、意地が悪い。(p.23)
「京都って意地悪文化なんです。これは京都を代表する先生がいってることで、私もそう思ってます」(p.71)