藤田 田さんの哲学①~その生き方

 日本にあのマクドナルドを初めて誕生させたのは、松江北高校の大先輩である藤田 田(ふじたでん)さんということもあって、マクドナルドには人並みならぬ親近感を抱いています(北高生でもそのことを知らない人が多数います)。一時、不祥事で低迷してどうなることかと心配しましたが、最近は好調のようで嬉しく思っています(マクドナルドの現状はコチラをご覧ください)。この夏休みに、私は藤田さんのことを詳しく調べてみました。今日は北高大先輩の藤田 田さんの生き方についてご紹介したいと思います。

 藤田さんは、藤田商店」という輸入雑貨販売会社を経営していました。創業は1950年。藤田さんが東京大学・法学部在学中の24歳のときです。若いころから天才的な商売人だったんですね。だから藤田 田さんを語るときは、マクドナルド社長としてだけでなく、「マクドナルド以前」の話も重要だと思います。当時は、「強欲」「守銭奴」「ホラ吹き」「拝金主義者」「我利我利亡者」「ハッタリの多い金儲け主義者」「ユダヤ商人」などと悪口を言われていました。

 藤田さんは1926年、大阪・吹田市生まれ。お父さんは6カ国ぐらいしゃべれる国際派の電気エンジニアで、裕福な家庭でした。母親は熱心なクリスチャンで、子供に「口をつつしむ人になってほしい」という願いを込めて、「口」の中に十字架を入れ、「田」(でん)と名付けたというのは有名な話ですね。「田」という字には、口の中に十字架が入っているから、話すことと食することを神に守ってもらえ、良い人生を過ごせるようにという母親心です。口に十字架を入れておけば、人のためにならない余計なことは言わないだろう、そんな子供が後に「うちのハンバーガーをまずいと感じるのはチンパンジーかゴリラくらい」なんてことを言う人になりました。18歳になるまで大阪から出たことのなかった藤田さんでしたが、お父さんの強い薦めで昭和19年4月より昭和23年3月までの4年間松江市で暮らすことになりました。松江市はお父さんが仕事の関係でよく出向いていたところです。当時体が弱かった藤田さんを案じて、戦時中ではあっても、せめて風光明媚なところで勉学に励んだほうが健康のためによい、との親ならではの配慮が働いたものと思います。談論風発を日々の生活の旨とした自由な校風を誇る旧制松江高等学校に通う傍ら、さまざまな驚きと生涯忘れえぬ数々の経験をしました。

 ところが、戦争が、彼の運命を変えてしまいます。高校在学中にお父さんが病死。米軍の空襲で家とほぼ全財産を失いました。戦災を避けるため、島根県・旧制松江高校で寮生をしていた藤田は、そこで敗戦を迎えます。当時の松江高校は、全国の旧制高校の中でもバンカラ度の最も高い、荒々しさと汚さでは随一の学校だったといいます。それだけに自由革新の気風に溢れた高校でもあって、藤田さんは校風に馴染んだのでしょう。応援団長を務め、肩までかかる長髪に羽織袴、高下駄で町中を闊歩していたようです。ことあるごとに、全校生徒の前で自分の主張を早口の大阪弁で理路整然とまくしてたてていたそうです。最大の武器は「口」=弁論だったようです。宍道湖の美しさにも心を惹かれていたと書いておられます。夕暮れ時に松江大橋から嫁ヶ島方向を見る景色の美しさはほかに例えようもなく、東洋のジュネーブと呼ばれるゆえんでもあります」と。ある日この松江大橋の上でばったり友人と出くわしました。その友人が面白半分に「この橋から飛び込めるか?」と挑発してきました。負けず嫌いの藤田さんは、「飛び込めるとも。なんなら5円かけようではないか」と答え、着物のまま飛び込みました。その後も懲りずに何度か飛び込んだ記憶があります。若気の至りですね。こうして多感な青春期を松江市で過ごした藤田さんは、同市に対してひとしお強い愛着を感じ得ませんでした。戦火に加えて、お父さんの死もあって、藤田さんはカネに困っていました。そこで彼は松江に進駐してきたGHQに飛び込み、通訳のアルバイトをするようになります。それから東京大学に進学します。お父さんの遺書に「戦争は終わり、いずれ平和が来ると思います。その場合、田が生きていく上では東大の法学部に進学して、政・財・官界に入るか、それができなければ、慶大の経済学部に進み、経済人になるのがよいと思います。日本は、学歴、学閥社会なので、そのほうが生きやすいと思うからです」と書いてあったことに加えて、授業料が安かったからだと、後に藤田さんは語っています。でも卒業時に「記念受験」でもらった大蔵省の内定通知「大蔵省への出向を命ずる」は、その場で破り捨てたそうです(約200名採用の中の7番目の成績だった)。当時の東大は、ガリ勉で利己的で、人間性ゼロのヤツしかいなかったと痛烈に批判しておられます。藤田さんは在学中から英語力アップのために、アメリカ軍の宿舎に泊まり込み、GHQ本部の通訳として働いていました。アルバイトとはいえ、かなりの高給取りで、進駐軍専用のクラブにも出入りして豪遊していたといいます。料亭でカネを敷き詰めた上に素っ裸で座って芸者と遊んだ、というエピソードも。そんな藤田さんの「拝金」に拍車をかけたのが、GHQにいたユダヤ人軍曹です。ユダヤ人は軍の中でも差別されていましたが、彼は仲間内で高利貸しをすることで、周囲の人間たちをじわじわと支配し、上官すら自分に頭が上がらないようにしていました。カネさえあれば、差別も乗り越えられる。勝てば官軍」なのだ、と。こういうやり方を彼は「ユダヤの商法」と呼びました。そして輸入商社「藤田商店」で、それを自ら実践していくのです。

 1972年の著書『ユダヤの商法』(ベストセラーズ)では、藤田さんのビジネス論をひたすら語る本ですが、いまだに根強い人気があります。なかでも、ソフトバンクの孫 正義(そんまさよし)さんがこの本の愛読者だったことは有名です。高校生だった孫 正義さんは、日本マクドナルドに毎日5回くらい長距離電話し「一目でいいからぜひお会いしたい」と伝えました。当然ながら断られます。その電話は10日間ほど続いたそうです。すると電話ではらちがあかないと考えた孫さんは、今度は郷里の佐賀県・鳥栖から飛行機で東京にやって来て、羽田空港から秘書室に電話し、「例の孫です。しつこい男がこうやってもうでてきちゃったらから、3分でもいいすですから…。あなたが意思決定しないで、とにかく藤田さんに伝えてください。仕事中でお忙しいなら、お顔を見るだけで話はしなくてけっこうです」とごねるように哀願したそうです。その熱意に負けて面会することにした藤田さんに、孫さんはこんな質問をします。「これからアメリカに行って勉強したいのですが、何を勉強したらいいでしょうか?自動車とか飛行機とか石油とか、学びたいことはいろいろあるのですが」と尋ねる孫さんに、藤田さんはこう答えました。「今はこの部屋くらいの大きなコンピューターも、そのうちハンディなものになる。コンピューターは伸びる。コンピューターだけ勉強してらっしゃい」「わかりました。将来、事業家になったら必ず来ます」1973年のことでした。アップルもマイクロソフトもまだなかった時代です。藤田さんの先見の明といい、孫さんの行動力といい、勉強になりますね。「天才は天才を知る」、藤田 田さんが孫 正義さんを生んだと言ってもいいかもしれませんね。藤田さんはこのときの孫さんをこう見ていました。「この人ならきっとうまくいくと思ったんですよ。すごく粘り強く熱心でしょう。こんなしつこい人は、あとにも先にもいませんよ」

 藤田さんは、GHQ時代のコネをフル活用して大儲けします。ビジネスのため世界中を飛び回ることになるのです。そして1969年、アメリカのシカゴで「マクドナルドが世界中に商売を広げたいので人を探している。ぜひ会ってほしい」と勧められ、マクドナルド創業者、レイ・クロックのオフィスを訪ねました。藤田さんは食べ物の商売には興味がなかったので、当初は断るつもりでした。だから「この条件が飲めるならやってもいい」と、合弁企業・日本マクドナルドの設立に3つの条件をつけたのです。

1:資本金は米マクドナルドと藤田商店で折半する
2:利益はアメリカに持って帰らず日本に再投資する
3:日本には日本のやり方があるのでアメリカの命令は受けない

 アメリカ本社の言いなりになることをキッパリ拒否した、藤田さんらしい商売魂を見るエピソードです。ところが、クロック氏は「おもしろい、おまえがやれ」と一発OK。ほかにもたくさん日本人の候補者がいたけれど、彼らはビジネスがわかっていない、と言っていたといいます。こうして藤田さんが45歳の時に、1971年に銀座「三越」に第一号店がオープンするのです。これについても藤田さんは信念を貫きました。アメリカマクドナルド社は、都市郊外から発展してきたから日本も同じようにして欲しい、と銀座出店に反対してきます。藤田さんは日本は都市の中心から発達する文化を持っているから「三越でなければダメだ」と譲りませんでした。三越は日本で一番古い老舗で日本一のデパート。その三越にオープンすればきっと良い店になるに違いない、と計算していたのです。藤田さんはマクドナルドを日本で成功させるため、アメリカのマクドナルドをそのまま持ってきたのではなく、徹底的に「日本化」します。日本語を重視して英語の「マクダーナルズ」ではなく、「マクドナルド」としたのもその例です。英語の音をそのままカタカナ店名にしたのでは日本では受けないと考え、3音ずつ切れる「マクド・ナルド」としました。カンバンに英語は一切使わず、内装にも赤や青といった星条旗カラーは使わせませんでした。アメリカの国旗や地図を出すことも禁止しました。ただ唯一メニューだけには、日本語と英語の併記で舶来商品であることが分かるようにしました。世間では「3週間で潰れる」と揶揄・嘲笑されましたが、どうしてあの大活躍です。10年後にはレストラン業界で売り上げ日本一になってみせる。ハンバーガーを1千億円売って、日本を制覇してやる」と応えておられたそうです。トイザらス」を日本に誕生させたのも藤田さんですよ。

 藤田さんはもともと通訳という言語の専門家だし、晩年まで日本語の研究を趣味にしていました。一見、自分が儲かれば日本の国なんかどうでもいい、というふうに見えるけれど、実は日本への強い愛着があったんだと思います。だから日本マクドナルドの就業規則の第一条は、日本で一番の高給を支払う企業を目指す」でした。誕生日を迎えた社員には特別休暇と祝い金を出し、社員の奥さんの誕生日にはメッセージ付きで花を贈り、年2回のボーナスの他に、3月に出る決算ボーナスは「社員を支えてくれたお礼」として全額奥さんの口座に振り込んだ(奥様ボーナス)。しかも奥さんに「秘密」のある社員には、特例としてボーナスを奥さんと社員の口座に振り分けてくれるというシステムまであった。これなら「今年のボーナスは少なかった」と奥さんに嘘をつけますからね。家族があるからこそ社員は気持ちよく働ける、それを形で報いる経営者が藤田さんでした(ボーナスは9.5ヶ月!)。私の会社は日本一の最高の給料を払います。文句あるか。一生懸命やろう」が藤田さんのスローガンでもあり信念でした。藤田商店時代から、定雇用率が出る以前から、身障者の雇用に積極的で、戦災孤児も受け入れていました。でも最終的に、藤田さんの商法は行き詰まってしまいます。バブル崩壊後の低価格路線、そして半額バーガーでマクドナルドは絶頂を迎えるものの、2001年9月にはBSE(狂牛病)騒動で客離れが起き、業績不振に。その後も低迷を脱せない責任を取って、2003年、藤田さんは「桜のように静かに散りたい」という言葉を残してマクドナルドの会長を辞任します。それから1年で亡くなっています。ちょっと悲しい晩年でした。

 たとえば、藤田さんは若き日に、実業家の道に進むことにしたときのことを、こんなふうに語っています。本当は大学を卒業するときに、少しは考えたんです。でも、その当時、40歳以上の日本人はダメで使い物にならないと思っていたんです。あんな戦争を起こして、日本を悲惨な目に遭わせて、その責任もとらないで、のうのうと役人をしていたり、大企業を経営している。こう考えたら、そんなところに就職してもしょうがないという結論になって、自分の商売を続けることにしたんです」

  もう少し藤田さんの人間性について触れてみましょう。藤田さんは私と同じで、寝る前にベッドで本を読む習慣を持っていたそうです。毎夜100頁とも200頁とも言われていました。現状認識をするために、整理立てて理論化するための言葉や数値を、本の中に見いだしておられたのでしょう。ジャンルを問わず乱読しておられたそうです。時間を見つけては書店に行って、本を山のように買う。読み切れないとなると、妻と分担して(!)ストーリーと感想を述べ合う。学生時代、英語の本だけでも500冊は読んだと聞きました。常に何かを考えていて、どんな小さなことでもすぐメモを取る人だったそうです。店ではポテトの袋にまでメモしたそうです。そのメモを毎日見る。1週間ごとにまとめて整理し、この話はどうなっているかと見直す。四六時中ものを考える習慣を身に付ける情報収集術の一つですね。何を始めるにしても、まず必要なのは貪欲に情報を集める姿勢である。情報収集術というものがあるとそれば、雑学を究めることにつきると思っている」 都内を移動する時は、できるだけ電車を利用しました。渋滞に巻き込まれず、時間が節約できることもあるけれど、世の中の移り変わりや若い人たちの間で何が流行っているかを敏感に感じとるためにアンテナを張っておられたということでしょう。数字に強いというのも藤田さんの特徴です。人間の精神活動に最も適切な温度は摂氏18度、水が一番美味しいのは摂氏4度、口の中に入ってくるモノが一番美味しいのは摂氏62度。数字に慣れ、強くなることは金儲けの基本と考えておられた藤田さんは、ふだんの生活の中に数字を持ち込んで、数字に慣れ親しむことを心がけていました。全て具体的な数字で物事を判断するという人でした。推計でいいからまず数字で売り上げや利益を考える、という姿勢です。ベッドの枕元に、外気と室内の温度がわかる寒暖計を置いておられました。朝起きて室内が18度で、外が12度だったら、6度の差があるから外は寒いな、と考えるのです。「ああ寒い」じゃなくて、数字で判断する訓練を積んでおられたのです。藤田さんの飛行機嫌いも有名でしたね。あんな鉄の塊が引力の法則に逆らって空中を飛んでいて、飛んでいる最中に空中分解したり、墜落しても何ら不思議はないと思うと怖かったのです。ところが、落ちるときには落ちるのだ、それで死ぬのならそれも運命と達観するようになってからは、平気だったといいます。私も飛行機嫌いで通っていますから、この気持ちは非常によく分かります。「ビジネスに満塁ホームランはない」というのが口癖でした。ビジネスはあくまでも一歩前進、また一歩前進、尺取り虫のように一歩一歩重ねていって成功に至るものであって、「時間×努力」が巨大なエネルギーになるのだというのが藤田さんの信念でした。例えば、藤田さんは、東大法学部4年生の24歳で藤田商店を始めた時から、毎月住友銀行に積み立て貯金をしてきました。最初の10年は月5万円(当時の5万円は大金で、日雇い労働者の賃金が、「二個四」(ニコヨン、100円札2、10円札4)で、手取り240円。25日間働いても6,000円にしかならない時代です。その時代に藤田さんはアクセサリーなどを輸入販売する「藤田商店」をスタート。5万円の貯金を始めることで、独立開業のリスクに備えたのです)。次の10年は10万円、以降は15万円と、続けられたそうです。その預金がいくらになったと思います?貯金は複利で回り、1991年4月時点で「24億1157万6544円」に達しました。藤田さんは人生が「仕事×時間=巨大な力」ということを、定期預金を通して証明したわけです。通帳は600冊にものぼったそうですよ。まさに「チリも積もれば山となる」ですね。私たちも見習いたい習慣です。

 そんな藤田さんの商売哲学は「勝てば官軍」というものでした。

●デフレ経済下で自分が生き残るためには価格破壊しかない、安く売ってお客をよけいに獲得する、お客を取られた企業はつぶれる、そうなれば全国的に大規模な失業問題が起きてくるのだろう、だが、失業問題をいかにするかを考えるのは政治家の仕事であって、わたしの仕事ではない、わたしの仕事は、近い将来浮上するだろう大規模な失業状態から、全力をあげて社員を守り抜くことである。

●ビジネスは「勝てば官軍」である。企業は勝たなければならない。勝つことによって、社会にいろいろな主張が言えるようになる。実績を上げられない経営者が何を言っても、負け犬の遠吠えとしか世間は見てくれないであろう。敗者は滅びるのみである。

 私は藤田さんの生き方には、共鳴するところがたくさんあるんですが、この「勝てば官軍」という哲学だけは、いただけません。このことは明日改めて、詳しく取り上げます。(続く) 

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