追悼・星野仙一さん

▲倉敷「星野仙一記念館」の前の胸像

 楽天の星野仙一(ほしのせんいち)球団副会長が、1月4日に、膵臓ガンでお亡くなりになりました。まだ70歳の若さでした。最後まで「強気」の自分を見せたいという星野流を貫き、病気は公表していませんでした。早すぎます。岡山県倉敷市出身の星野さんは、母子家庭に育ち、岡山県立倉敷商業高校(甲子園大会には届かず、負けた日は押し入れにこもり泣き明かした)から明治大学に進学。母親を楽にさせてあげたい、と白球を追いました。東京六大学リーグで同大学のエースとして活躍し、昭和43年のドラフト1位で中日に入団。1年目から8勝を挙げるなど、中心選手として活躍しました。昭和49年には、セ・リーグの最多セーブ投手となり、「沢村賞」を獲得。チームの20年ぶりの優勝に貢献し、胴上げ投手となった。昭和57年に現役引退。選手としては、実働14年で500試合に登板し、146勝121敗34セーブをマークしました。引退後は中日、阪神、楽天の監督を歴任。計4度のリーグ優勝を飾り、楽天時代の2013年には、「震災復興」を掲げ、巨人を倒して自身初の日本一に輝きました。プロ野球の監督としては3球団を指揮し、17年間でリーグ優勝4度、日本一1度。成績は1181勝1043敗53引き分け。平成29年に、顕著な活躍をした選手や監督を顕彰する野球殿堂入りを果たしました。「燃える男」、「闘将」と呼ばれ、巨人を倒すために野球人生を捧げてきた男がこの世を去りました。 

 突然の訃報でした。星野さんが息をひきとったのは1月4日。球界関係者によると「膵臓ガンで闘病していた」といいます。昨年末に体調が悪化し、年末年始を家族とハワイで過ごす予定だったが急きょ取りやめていました。昨年11月28日に東京で、12月1日には大阪で「野球殿堂入りを祝う会」に出席。2000人を超えるプロ、アマの球界関係者が集まり「これだけの人が来てくれて野球をやってて良かった。野球と恋愛して良かった。もっともっと恋したい」と、失われない野球への情熱を口にしていました。しかし、これが、星野さん最後の晴れ舞台となりました。

 相手が強ければ強いほど、「燃える男」。現役時代のキャッチフレーズでした。その原動力が「打倒・巨人」。指名されると思っていたドラフトで振られ、憧れの球団は「生涯のライバル」に変わったのです。「打倒巨人」をモチベーションに、中日のエースとして闘争心をむき出しにして投げ、巨人戦では歴代6位タイの35勝で通算146勝を挙げました。「沢村賞」を受賞した1974年には、あの川上哲治監督のV10を阻止して優勝しましたが、「日本シリーズは邪魔。俺は巨人を倒したからいいんだ」と言い切ったほど、巨人を倒すことに執念を燃やした人でした。「強い巨人に勝ちたいんや」。その思いは、引退後も変わることはありませんでした。ライバルであった長嶋茂雄終身名誉監督(81歳)は、「打倒巨人を前面に闘志満々でぶつかってきた投手だったからこそ、私も負けずに“さあ仙ちゃん、来い”と心を燃やすことができ、対戦するのが本当に楽しみでした」と懐かしみました。当の星野さんも、初めてオールスターに選ばれて出場したときには、ベンチに座っていたら「仙ちゃん、元気か。まあ、これでも飲めよ」と言って、スーパースターの長嶋さんが飲みかけ(!)のコーラを、まだペーペーの星野さんにわざわざ手渡しくれたことに感激して、全部飲んだといいます。長嶋さんらしいエピソードです。

 監督時代は「闘将」と呼ばれ、代名詞は「鉄拳制裁」でした。「非情と愛情の2つを併せ持つことが大事」という持論を持ち、闘う集団につくり上げました。中日で2度のリーグ優勝。97年には扶沙子夫人(享年51)を白血病で亡くしましたが、グラウンドで戦い続けました。「俺は弱いチームを強くすることが好きなんだ。それが、男のロマンやないか」。反骨心の塊のような男でした。2002年に低迷していた阪神の指揮を執り、翌03年に18年ぶりのリーグ優勝に導きます。東日本大震災の起こった楽天監督時代の2013年には、日本シリーズで宿敵の巨人を破り、4度目の挑戦で初めて日本一監督となりました。「天はその人が越えられない試練は与えない」と言って、頑張っておられました。「怖さ7割、やさしさ3割でちょうどいい」と常に口にしていました。選手やコーチの奥さん、球団スタッフに誕生日プレゼントを贈り、報道陣とはお茶をごちそうして情報交換し、一緒になって闘いました。決して一流ではない、かといって二流に甘んずるわけでもない、いわば「超二流」と、現役時代を星野さんは振り返っています。「二流なんだが、時には一流にも勝つ、気迫があれば互角に戦える、という自信があった」

 2014年にユニホームを脱ぎ、2015年に球団副会長に就任。ONとともに球界への影響力は大きく、星野氏も「野球への恩返しの意味でも自分の思いや考えを若い人につないでいきたい」と語り、野球の普及活動に尽力していた矢先のことです。恋に恋した野球。しかし、楽しみにしていた2020年東京五輪を前に帰らぬ人となりました。あの笑顔はもう見れません。あの怒鳴り声ももう聞けないのは淋しい限りです。

 当時、人気バンド「オフコース」のメンバーだった小田和正さんは、星野さんと同じ1947年生まれで、1983年、星野さんの現役最後の試合で花束を手渡したのをきっかけに、以来35年にわたる親交が続きました。星野さんが楽天監督として初の日本一になった2013年のシーズンの本拠地開幕戦では、東北大学出身の小田さんが、星野さんと同じ背番号「77」をつけたユニフォーム姿で始球式を務めました。星野さんが小田さんのライブを鑑賞に訪れ、サプライズでステージに飛び入りして小田さんファンに笑顔を振りまいたりと、二人は固い絆で結ばれていました。「本当に残念です。御冥福をお祈りします」と、悲しみをかみしめた小田さん。

 私が最近の星野さんで忘れられない記憶は、大好きな巨人の原 辰徳監督が1回目の巨人軍監督を追われた2003年10月7日、甲子園球場、阪神との最終戦です。試合終了後の「監督退任セレモニー」で、星野さんから花束をもらい肩を抱かれて「もう一度、勉強して戻ってこい。くじけるな」ねぎらいの言葉をかけられた時に、涙をこぼしながら星野さんに抱きついた原監督の姿が思い出されます。「仏の顔と優しさ、それと勝負師としての鬼の厳しさ、両極端の二つの顔を持ち合わせていた。メリハリの強さを尊敬していた」と原さん。2013年の日本シリーズで楽天イーグルスと3勝3敗になり、全力で戦いましたが巨人が破れ、口を真一文字に結んだままじっと胴上げを見届けました。当時の心境について、「心の中で拍手を送っていた」と原さんは明かしました。現在巨人を率いる髙橋由伸監督は、「お会いするたびに『巨人が強くないとダメだぞ』と激励してもらった。その言葉は私の胸に常に刻まれている」と振り返りました。

 星野さんが好きだった言葉は、「夢」で、色紙にはいつも「夢」と書かれました。「かなわないと思ったら、そこで終わり。挑戦し続けるからこそ人生の価値がある」と野球に全てを注ぎ、体現してこられました。評論家時代に「選手はな、信頼しても信用はするなよ」「成功の反対は失敗じゃない。何もしないことだ」との金言を残されています。私は星野さんに習い今でも、「生徒のことを信頼はしていますが、信用はしていません」と公言し、指導実践の数々に生かしてきました。私は、昨年偶然、倉敷の街を歩いていて、路地に「星野仙一記念館」とあるのに導かれて、訪問して星野さんの人となりを振り返ったのが懐かしく思い出されます。合掌。😢😢😢

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