西村京太郎先生の苦労

 今から20年も前に出版された郷原 宏さんの編んだ『西村京太郎読本』(KISS出版、1998年)に、郷原さん自身が寄せている「西村京太郎とその時代」という文章の冒頭は、次のように始まっています。

 いま西村京太郎について語ることは、とりもなおさず日本の推理小説について語ることである。あるいは逆に、いま日本の推理小説について語ることは、とりもなおさず西村京太郎について語ることだといってもいい。いずれにしろ、日本の推理小説の水準が西村京太郎の作品によって支えられ、西村京太郎の作品が名実ともに日本の推理小説を代表するような状態が、もう二十年以上続いている。後生の文学史家は、おそらくこの時代を「西村京太郎の時代」と名付けるに違いない。

 これが、いかに正確に時代を射貫いた言葉であったかは、その後の西村先生のご活躍を見れば明らかですね。当時は「トラベルミステリー」の全盛期で、20人近い作家が、鉄道と旅をテーマとしてシリーズ物を書いていました。2000年代に突入すると、トラベルミステリーは、新しくブームとなった警察小説に押されて減速していきますが、西村先生の「十津川警部シリーズ」だけは、勢いが衰えるどころか、全速力で時代の先頭を走り続けました。

★長い間売れない作家だった!!★

 ただ注目しておいてよいことは、西村先生は最初から売れたのではなく、長い間「売れない作家」であったという点です。デビュー作の『四つの終止符』(文藝春秋新社、1964年)から100冊目の『トンネルに消えた』(廣済堂出版、1985年)までが約20年かかっています。先生、34歳から55歳の間です。ところが、200冊目の『会津若松からの死の便り』(徳間書店、1992年)までがわずかに7年、300冊目の『殺意の青函トンネル』(祥伝社、2000年)までは8年で到達しています。400冊目の『北への逃亡者』(中央公論新社、2006年)までが6年、500冊目の『十津川警部 秩父SL・3月27日の証言』(集英社、2012年)6年で到達しています。そして2017年12月発売の『北のロマン 青い森鉄道線』(徳間書店)でとうとう記念すべき600冊を突破しました。この間わずか5年です。500冊達成の時の西村先生は81歳でしたから、最近の100冊は全て80歳を過ぎてから書かれた作品です。80歳を過ぎて、こんなハイペースで作品を書き続けている作家を知りません。先生が目標としておられる635冊(634メートルの東京スカイツリーを1つだけでも上回りたい)は、このペースで行くと、あと2年ほどで実現するでしょう。

 電気工業学校を卒業して、人事院に11年勤めて辞めた後、プロの物書きを目指します。その間、パン屋の住み込み運転手、府中競馬場の警備員、私立探偵、出版取次店トーハン、生命保険のセールスマン、パチプロのような生活と、食べるために本当に苦労しておられます。懸賞小説に応募しては入賞したりはしていましたが、やはり食えない生活でした。十津川警部シリーズ」の初期の2,3冊は全く売れませんでした。十津川警部は、もともと海の事件で活躍している人で、当時先生は「海の作家」と呼ばれていました。西村先生の最近のご活躍は55歳以降の話です。

 34歳で、第40回江戸川乱歩賞」に当選。29歳で人事院を辞めて5年目のことでした。授賞式で担当編集者から「これで、一人前の作家ですよ」と言われますが、これが全くの大嘘。受賞第一作に『D機関情報』というスパイ小説を書きますが、全く売れず、3,000部刷って売れ残ってしまいました。こうした状態が10年続き、西村さんの小説は内容はいいんだが、何故か売れないんだよ」と慰められます。初版の部数がどんどん減らされていきます。心細くなってしまい、そのうちにあなたの作品はもう出版するのをやめることにしました、と言われるのではないかと恐れます。当時の先生の年収は500万円未満で、毎年還付金を貰っていました。東京を逃げ出して(女性トラブルもあり)、山村美紗さんのいる京都へ行きます。そんな時に、光文社の担当編集者が、次に何を書きたいかテーマを出してくれと言ってきます。それまでは一応書きたいものを書かせてもらっていたのですが、あまりにも作品が売れないので、業を煮やした会社が、売れそうもないテーマなら本にしないぞ、と実力行使をしてきたのです。ある日、ネタ探しにふらふらと東京駅に行った時に、ホームに群がるたくさんの子どもたちを見つけます。なんだろうなと思ったら、彼らはみんな一所懸命ブルートレイン(寝台特急)の写真を撮っていました。そこから、列車を使ってミステリーを書こうというヒントをもらいます。西村先生は、昭和7年の浅草か、子どもに人気のブルートレインのどちらかを書きたい、と返事をしました。西村先生ご自身は、浅草の方を書きたかった、と回想しておられますが、担当者には冷たく「これは売れません」と断られ、結局『夜行列車殺人事件』を書くことになります。この本が出た後に、担当者と京都で食事中、本社から担当者に電話がかかってきて、「西村さん、一万部増刷になりました」と報告。10年間一度も増刷がなかった先生は、とっさに何が起きたのかわからなかった、と言います。列車を使ったミステリーをどうしても書きたい訳ではありませんでした。最初はこの一冊で終わるのかと思っていました。一冊目が売れたので、どんどんシリーズで出すことになって現在に至っているのです。ふとした偶然のきっかけでベストセラーシリーズが誕生したわけですね。年収が500万だったのが、1,000万になり、3,000万になり、8,000万になり、1億5,000万になり、5億円になりました。先生は、自分がなぜ売れるようになったのか?を分析して、①運がよかったこと。たまたま書いたものがその時代にマッチした。あの時に昭和7年の浅草を書いていたら、「いいものを書くが、何故か売れない作家」のままだっただろう。読者も面白いと思うように書いたこと。それまでは書きたいものを書きたいように書いていたのだが、あまりにも売れないので、考えを改めたこと。の二つを挙げておられます。

 大御所となった西村先生は、出版社の編集者に、「今度はトラベルミステリーじゃなくて、こういうものを書きたいんだよね」と打診すると、「いやぁ、先生。それは非常におもしろいお話ですね。でも他の出版社でやってください」と言われてしまい、結局、トラベルミステリーしか書けなくなってしまいました。それでも最近は、「十津川警部シリーズ」の中に、「戦争」をテーマにした話を盛り込むことで、精一杯の抵抗を示しておられます(笑)。⇒コチラです

 西村先生からは、一つのことに諦めずに打ち込むことの大切さを、身を以て教えていただいています。まさに「継続は力なり!」ですね。❤❤❤

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