衣笠祥雄さん亡くなる

 広島で活躍し、2215試合連続出場で「鉄人」と呼ばれた衣笠祥雄(きぬがささちお)さんが4月23日、上行結腸がんのため、都内でお亡くなりになりました。享年71歳。京都府出身。衣笠さんは、1965年に広島に入団し、1968年から一軍に定着。1987年、40歳の時に、米大リーグ、ルー・ゲーリッグ(ヤンキース)の持つ、2130試合連続試合出場を48年ぶりに塗り替える、2131試合連続出場の世界新記録(当時)を達成しました。連続試合出場記録日本記録(2215試合)・世界2位記録(後にカル・リプケン・ジュニアに抜かれる)、連続フルイニング出場歴代3位、通算安打数歴代5位(2543本)、通算本塁打数(504本)歴代7位、死球歴代3位(161個)など、数々の記録を打ち立て、1987年9月21日に現役引退を表明。その際「可能性を求めて野球を続けてきたが、走、攻、守の三拍子そろった野球ができなくなった。カープは守備のチーム。自分が納得できる守備ができなくなっては、これ以上プレーすることは耐えられない」と、声を詰まらせながら現役との別れを告げたことを思い出します。引退後は野球解説者として活動。1987年に王 貞治さんに次いで、プロ野球2人目の国民栄誉賞を受賞し、1996年には「野球殿堂」入りも果たしました。まさに努力の人でした。⇒私のこのブログでの衣笠レポートはコチラです

 巨人ファンの私が絶対に忘れられないのは、1970年8月1日の広島戦で先発した西本 聖(にしもとたかし)投手の事件です。7回7―1で巨人リードの場面で、二死後、二人にデッドボールを与え、衣笠さんにも左肩にシュートをぶつけてしまいました。両軍から選手が飛び出してきて大乱闘です。西本さんは倒れている衣笠さんの所へ走って行き、「すみません、すみません」と繰り返します。すると衣笠さんは「俺は大丈夫。それより危ないから早くベンチに帰れ」と言います。その後、西本投手は乱れて8―8の同点で引き分けてしまいます。宿舎に戻った西本さんは、衣笠さんの自宅に謝罪の電話をかけます。大丈夫だから心配するな。それより、勝っていた試合に勝てなくてお前は損をしたんだぞ」と逆に気遣う言葉を返しました。これには西本投手はグッときたと言います。「なんて人格者なんだ」。実はこのとき肩甲骨を骨折していました。しかし翌日も、肩に包帯をグルグル巻きにして代打で出てきます(ここら辺が「鉄人」と言われる所以です)。江川 卓投手の剛速球を3球フルスイングして三球三振。「1球目はファンのため、2球目は自分のため、3球目は西本君のために振りました」と後日語りました。シュートピッチャーで厳しい内角攻めが生命線の西本投手はこの日以来、「衣笠さんにだけは厳しく内角を攻めるのをやめよう」と決意したそうです。以降ホームランをずいぶん打たれました。

*衣笠さんはデッドボールに怒るのは間違っている、という信念を持っていました。ピッチャーが投げ損なったことが一つ、バッターの逃げ方がまずかったことの二つが重なってデッドボールとなるのだから、自分にも過失がある。ぶつけられたと怒るのは、自分の責任は棚に上げて他人を責めるのに等しい。プロの選手ならボールをよけ、仮によけ切れなくてもダメージを最小にする技術を持たねばならない、というのが衣笠さんの哲学でした。デッドボールを食らっても、「心配するな!」と平然とした顔でピッチャーに手を挙げて、一塁へ走って行く衣笠さんの姿はすがすがしいものがありましたね。

 そんな衣笠さんも、若い頃は相当やんちゃで、監督やコーチからこっぴどく叱られたことも多かったと聞きます。当時、広岡達郎コーチから脱いだ靴がそろっていないというだけで大目玉をくらいました。衣笠さんは「おれはプロの野球選手だ。靴の脱ぎ方まで注意してくれるな」と反発します。若かったんですね。バットを振ること、ボールを追いかけることが野球のすべてだと思い込んでいたのです。広岡さんは、プロの選手というのはグランドにいるときだけがスポーツマンではない、生活全体がスポーツマンでなければならない、ということを教えようとしました。大きなスランプに落ち込んだときに、衣笠さんは野球の難しさを実感して、心をコントロールすることも野球の大切な要素だということに気づきます。お寿司屋さんでも火の通ったものしか口にしないのも、日常生活において体の管理に細心の注意を払っていたことが分かります。大記録のベースには生活全体に気を配る衣笠さんの偉大さがありました。

 さらには、グラブやバットの手入れも野球である。「しっかりボールを捕ってくれよ」と願いながら磨いておけば、そのグラブに助けられることもある。雨の日に使ったバットに、「今日はご苦労さん」と言いながら、きれいに拭く。すると、次の日に一本のポテンヒットを生んでくれたりする。野球のような徹底した勝負の世界にいると、昔の人が言うように、道具にも心があるのか、と思うことがしばしばだ。(中略)ゲームや練習は、「野球」という大きな仕事の一部にすぎない。だから、その限られた一部分で、どんなにガムシャラにやってみても脱出口は見つからなかったのだ。一生懸命努力している、全力投球していると信じていたけれど、自分という人間の全体からすれば、ほんのわずかな部分でしか努力していなかったのである。   ―衣笠祥雄『人生フルスイング』(佼成出版、1993年)

 思い上がりが消えると、ファンのほかにも、「ありがとう」を言うべき人がたくさんいることに気づいた。打たれないように投げるのがピッチャーの生きがいなのに、打たせるためだけに投げてくれたバッティング・ピッチャー。選手一人ひとりの身体を、本人より好く理解していたトレーナー。パレードの中にはいないが、選手以上に優勝に貢献した人たちがいっぱいいた。練習道具を毎日準備してくれる球場の係の人たち、チケット売り場の担当の人たちもそうだ。陰で大勢の人が支えてくれたから、勝てた、勝たせてもらったのである。人間は一人では生きられない、周りの人や物に生かされている。そんなことを考えるようになったのも、あの優勝の頃からだ。このように、野球ができるのは多くの人や物に支えられてのことだ。そう思うと、周りの人や物に対して、感謝の気持ちが素直にわいてくる。人に注ぐ眼差しが優しくなり、グラブやバットの手入れにも熱が入った。たとえば、50年の優勝以来、球場で練習道具を準備したり、グランドを整備してくれる球場職員の姿が、しばしば目に留まるようになった。それまでにも、そのひとたちは同じようにはたらいていたはずだ。しかし、その人たちのことはまるで頭になかった。ところが、「ああ、またいつものようにやってくれているんだな」と、チラリとでも目を向けることができるようになった。ときどきは、言葉もかわすようになった。周囲に目を向けるゆとりができたのだ。「いつもグランドを整備してくれて、ありがとう」そう思える人と、そこにはだれもいないかのように通り過ぎていく人間と、どちらの心が豊かかと言えば、もちろん前者に決まっている。 ―同書

 今月4月19日の「DeNA―巨人戦」では、試合を中継したBS-TBSで解説を担当しておられましたが、声がひどくかすれ、途切れたり、何を言っておられるのか聞き取れない時もあり、よほどひどい風邪でのどを痛めておられるのかなと心配していたところでした。ご本人も周りには「風邪だ」と言っておられたそうです。まさか病気がそこまで深刻だったとは…。あまりにも突然のことで驚いています。当日、衣笠さんと一緒に解説をしたミスターパーフェクト元巨人の野球解説者・槙原寛己(まきはらひろみ)さん(54歳)は、「解説の日は衣笠さんの体調が本当に思わしくなく、なかなか声が出なくて。いろいろしゃべりたいのに、しゃべれないもどかしさを横で感じていたので。本当に残念」と追悼の意を表しました。当初は、衣笠さん一人で務めるはずで、槙原さんの解説の試合ではなかったのですが「衣笠さんの体調がもう一つなので、隣にいてあげてください」とTBSから急きょサポート役をお願いされたんだそうです。4月26日、5月にも解説の仕事を入れられていたそうです。現役時代の「鉄人」らしく、最後まで仕事に穴を空けずに、与えられた職責を全うされた衣笠さんらしい最後でした。衣笠さんのこうした人柄を思うとき、鉄人であるだけでなく哲人でもあったというのが、私の思いです。

 私が島根県立松江南高等学校に勤務していた若い頃、学園祭の講演に衣笠さんにお越し頂いて(一流の達人の話を聞かせたいという当時の校長の思いを受けて、お金をかけて毎年ビッグな人をお呼びしていました)、生徒たちに努力の尊さを語られ、熱いメッセージを贈っていただきました。講演後に先生方と一緒に撮った思い出の記念写真が下です。❤❤❤

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