谷津嘉章(やつよしあき)

     『週刊プロレス』の最新号(6月6日号)には、「谷津嘉章アルバム」という懐かしい特集が組まれました。谷津嘉章(やつよしあき)というプロレスラーは、新日本プロレス、全日本プロレスでスター選手としてそれなりに活躍していたのですが、運があれば、もっと凄い選手(ブランド)になっていた選手です。この特集記事を読みながら、少し振り返ってみたくなりましたので、取り上げることにしました。

 谷津嘉章は大学時代、日本大学のアマレス部に所属しており、全盛時には国内無敵で「日本レスリング史上最強のヘビー級」と呼ばれていました。1976年~1980年の5年連続全日本選手権優勝、1976年モントリオール五輪フリー90キロで8位、1978年と1979年にアジア選手権で優勝、そして1980年モスクワ五輪フリー100キロ級にエントリーされて「金メダルは確実」と言われていましたが、米ソ冷戦の影響で日本が出場をボイコットしたために、1984年のロス五輪を待たずしてプロ転向を決意しました。当然、オリンピックに出場していれば、谷津はヘビー級で金メダルを獲得することができたはずです。しかし、当時ソ連がアフガニスタンへ軍事侵攻したことを受けて、アメリカがオリンピックへの不参加を表明、日本も不参加を表明しました。これが谷津の人生の大きな分かれ目になりました。

 その後、谷津新日本プロレスに入団します。東京・新宿の京王プラザホテルで行われた彼の入団記者会見には、アントニオ猪木坂口征二の両巨頭が、巡業先から駆けつけてきたのですから、いかに期待が高かったかが分かりますね。当然鳴り物入りでの入団でしたので、前座はいっさい経験せず、いきなり海外WWFへ武者修行に旅立つという破格の待遇を受けました。ニューヨークのマジソンスクエアガーデンでホセ・エストラーダをフロント・スープレックスで撃破、1年後に凱旋帰国すると、国内デビュー戦として、アントニオ猪木とのタッグコンビで蔵前国技館のメインイベントに登場という、超破格の扱いを受けます。凱旋帰国の国内デビュー戦で、蔵前国技館のメインイベントを務めたプロレスラーは、日本プロレス史上で谷津嘉章ただ1人です。昭和56年6月のことでした。

 しかし、最高の舞台での華々しいデビュー戦は、谷津にとっては見るも無残なものとなりました。対戦相手はスタン・ハンセンアブドーラ・ザ・ブッチャーというトップ外人との戦いでしたが、谷津は、お互いに「俺こそがトップ外国人」と対抗意識を燃やす2人にボコボコに破壊されました。二人がかりで鉄柱に叩きつけられて大流血。新日本デビュー戦で張り切るブッチャーの凶器攻撃で血の海に沈み、ハンセンのウエスタンラリアートで失神KOされると戦闘不能に陥り、最後は「試合放棄」で負けました。国内デビュー戦を、蔵前国技館のメインイベントで飾ったレスラーは谷津ただ1人ですが、デビュー戦でこんなひどい目にあわされたのも谷津ただ1人でしょう。普通、鳴り物入りでプロレス入りした大物新人選手の場合、どんなに試合が下手であったとしても、通常の国内デビュー戦ではそれなりに見せ場を作ってもらって、勝たせてもらうケースが常套手段です。坂口、鶴田、天龍、長州、北尾、輪島、みんなそうでしたね。谷津の場合は、大流血に追い込まれ、まったくいいところを出させない。実力差を見せつけられた谷津は、再び渡米し、再起を図る、というのが、アントニオ猪木の描いた構図(アングル)でした。予定調和を嫌う猪木は、誰もが予期しない展開が大好きなんです。谷津はその生け贄にされた格好です。試合前控え室に、ブッチャーハンセンにこのアングルを伝えにミスター高橋が行くと、グリーンボーイの谷津を気の済むまで痛めつけるだけでいいという、新日本プロレスの意図に大喜びしたと言います。ましてや特にこれが新日本デビュー戦となるブッチャーは、持ち味を十二分に発揮して「いい仕事」をしました。

 アマチュアから鳴り物入りでプロレス入りした谷津のデビュー戦が、何でこんな無残だったのかその背景を改めて考えてみると、やはり当時の新日本プロレスには、それだけの余裕があったのだと思います。昭和56年当時の新日本プロレスは、エースのアントニオ猪木を筆頭に、坂口征二、藤波辰巳、タイガーマスク、キラー・カーン、タイガー戸口等のスター選手がずらりと並び、中堅クラスとして長州力、ストロング小林、木村健吾らが控えていました、今、思えば選手層が最も厚い充実の時代でした。会社にしてみれば、急いで谷津をスター選手にする必要はなかったのです。むしろ、谷津のデビュー戦を通じて、プロレスはそんな甘いもんじゃないそ!」という厳しさをアピールした方が、世間に強いインパクトが残せると猪木は考えたのでしょう。谷津のデビュー戦から3年後、新日本プロレスは選手の大量離脱で窮地に追い込まれますが、もし仮に、谷津がこの時にデビュー戦を迎えていたとしたら、扱いは全然違っていたはずです。このあたりも谷津の不運と言えましょう。

 谷津はその後、長州 力のタッグ・パートナーとして急成長し、ジャパンプロレス、全日本プロレス、SWSという各団体でスター選手として活躍します。しかし、ジャパンプロレスでは長州 力に次ぐナンバー2、全日本プロレスでもジャンボ鶴田に次ぐナンバー2、SWSでも天龍源一郎に次ぐナンバー2と、ついにメジャー団体でエースとなることはありませんでした。そこそこの存在感を発揮するにとどまっています。

 谷津がなぜプロレス界に燦然と輝くブランドになれなかったのかを考えると、やはりあの惨憺たる国内デビュー戦が、その後の谷津のレスラー人生に負のイメージを残してしまったからではないかと思います。もし谷津が国内デビュー戦を颯爽と飾っていたら、その後のプロレス人生はまた違ったものとなったはずです。さらに言えば、昭和55年のモスクワ・オリンピックに日本が参加していれば、谷津の人生はまったく違っていたでしょうね。

 谷津嘉章というプロレスラーは、トップになれる資質を持ちながらも、2番手に甘んじてしまったという感があります。残念ですね。私は彼の「ジャーマンスープレックスホールド」や「監獄固め」は大好きでした。「振り返れば、“凄いヤツになれ!”って言われて、“強ければ何とかなるんじゃないか”と思って入ったプロレスだけど、強さだけじゃ駄目な世界だったね。決して嫌いではなかったんだけど、どこかで冷めていたんだよね。熱くなれなかったな」と、谷津はインタビューで振り返っています。週刊プロレス』の特集を読みながら、谷津嘉章というプロレスラーの悲運を改めて振り返ってみました。♠♠♠

広告
カテゴリー: 日々の日記 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中