学校は勉強しに来るところではない!勉強の方法を教わりに来るところだ

 『読売新聞』1月24日付の朝刊に、「先生のコトバ⑥」として、さだまさしさんのインタビューが載りました「学校は勉強しに来るところではない」というタイトルです。若い頃からさださんを追いかけている私にとって、この話はコンサートでもよくされていて有名なトークネタです。私も何度もコンサートでこのお話しを聞かせてもらっています。「生涯勉強 のちのち実感」と見出しがついています。新聞記事よりも、もう少し詳しくたどってみましょう。

 さだまさしさんの書き下ろしエッセイ『心の時代』(サンマーク出版、1998年)pp.166-191には、高校時代二年十組の名物担任安本 衛(やすもとまもる)先生が登場します。國学院高校の時の担任、二年十組(総勢68名の大クラス!)の安本 衛先生は、人生の恩師というか、大人になってからも「七夕会」と称して集うクラスの皆の心の拠り所みたいな方でした。担任で、古典の教師でもある安本先生の登場場面が、まるで映画のワンシーンのように描写されています。こうして、30年近く昔のある授業を、しかも担任教師の言葉を、一言一句忘れずに覚えていることって本当にすごいことですね。さださんが、お母さんを送ったその日に、安本先生が脳梗塞で倒れました。1度は持ち直し、小康状態を保っていましたが、肺炎を併発し、2016年5月2日未明に、83歳でご逝去されました。公私ともにお世話になった恩師を失ったことは、さださんだけでなく、弟子達、「安本一家」には大打撃でしたが、皆一体となって、共に先生の教えとご縁を大切に仲良く生きてゆくことを誓っておられましたね。お亡くなりになってからも、昨年も当時の仲間が4回集まっているくらい結束の固いクラスでした。

 安本は担任であるばかりか、我々の国語科の教師でもあった。そして、最初の古典の授業がやってきた。授業の時間が始まっても、安本は教卓の上に教科 書を置いたまま、黒板の前を考え事をするかのように左右にうろうろするばか りだった。休み時間の延長でざわついていたクラス(なにしろ68人の大ク ラスだ。ざわつきも半端じゃない。)、入ってきた教師が何も言葉を発せずただうろうろするのを見て静かになる。それを待っていたかのように、安本は平然と語り出した。大きな声だった。
「これから諸君とともに古典文学について学んでいくわけだが」と、そこで言葉を切り、
「俺はなあ、古典文学のなんたるかを君たちに“教える”ほど古典を知らない」ほうっとクラスが笑いとないまぜになったため息をついた。さらに言う。 「古典のなんたるかを教えるほど、偉くはないんだよ。」 今にして思えば、素晴らしい「掴み」だった、まず自らが一瞬にして生徒の視線まで降りてきたのだ。
・・・(中略)・・・
「いいか、日本語である限り君たちに読めないはずなどないのだ。たとえば、諸君が先生に内緒でロッカーに隠して置いているであろう少年マガジンや少年サンデー、はたまた平凡パンチやプレボーイを読むが如くに、古典文学を読んでみたいと思わないか?」誰だってそう思っている。だた、諦めているだけなのだ。安本はそういうわれわれの絶望感を抱え上げるように問いかけ、問いかけることによってこころを掴んだ。そしてさらに続けてこう言い放った。
「俺はなあ、君達に古典のなんたるかを教えるほど偉くはないが、君達が将来、週刊誌を読むが如く古典を読むための『イロハ』だけはきちんと教えてやるから、黙って俺についてこい」

 理路整然と語る安本先生に、みんなガツンと心をつかまれ、先生の弟子となりました。厳しいけれど、どこか昔風の温かさがあり、生徒の心をつかむのがうまい先生でした。こうして、結束を固めた二年十組でのエピソードの数々は、さださんのコンサートの間合いのネタで沢山紹介されました。「来週までに全員雑巾を一人一枚ずつ持ってくるように」という先生の要請に、さださんは下宿なので作れないと言うと、「じゃあ、さだのために誰か余分に作ってこい」と。地方から出てきて下宿生活をしていた佐田さんのために、クラスの19人もの仲間が雑巾を助けてくれた話、ひんしゅくを買ったものの、文化祭で大儲けした話(他クラスが2,000~5,000円がいいところにもかかわらず30,000円を大きく超えていた!)、定期考査の平均点は学年最下位だったものの、実力テストではダントツの学年一番だったこと、平生は出席率が学年最下位なのに、雪やストライキで登校が困難な時だけは、歩いてでも全員(!)が揃うという不思議なクラスのこと、など心に染みる高校時代のエピソードがありましたね。さださんが、本やコンサートのトークでよく話題にされた、安本先生の名言がこれです。私も学校でよく口にする言葉です。

 お前たち勘違いしないように一言だけ言っておくけれど、学校というところは勉強をしに来るところじゃなくて、学校を出た後で自分の本当の勉強をするための方法を教わりに来るところだ。学校が終わったら勉強が終わるんじゃなくて、学校を出てからお前らの勉強が始まるんだ。一生かけて勉強しろ。

 2014年2月20日の『中日新聞』にも、恩師安本 衛先生のこの話が載っていました。本当にいい言葉です。

 多くの学生は、学校を“勉強する場所”だと思っているから、卒業したら『勉強も卒業した』と勘違いするが、それは間違いだ。よいか、学校とは“勉強する方法を教わる場所”だ。勉強は一生をかけてするもの。学校にいる間に“勉強する方法”をきちんと学び、己の人生を懸けて自分の勉強を果たせよ。

 さださんは恩師の言葉を忠実に守り、66歳になった今でも、せっせと歌作りに励んでおられます。学校は勉強しに来る所ではありません。「勉強の仕方」を教わりに来る所です。そして自分でいつまでも勉強が続けられるように、その礎を固めるところです。私は英語の授業で、できる限り「勉強の仕方」「心がまえ」を教えてきましたし、今もそうやって教えています。最近の若い先生たちは一生懸命、手取り足取り「勉強」を事細かく教えてしまいがちです。勉強の仕方」を教えてもらっておけば、その生徒たちは大学へ進んでも、社会人になっても、一生勉強を続けることができますね。ということで、今日も二次試験対策の授業で、英語を正確に読むための「勉強の仕方」を話してきます。私は学生時代にそういう教育を受けました。今でも分からないことは山のようにありますが、自分で調べる「方法」は、きっちりと教え込んでいただきました。感謝しています。私の以前の教え子たちも、みんな立派に成長しました。嬉しい限りですね。教師は教え子が財産の全てです。❤❤❤

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