渡部昇一先生のエピソード(1)

 私は若いときに、故・渡部昇一先生(上智大学名誉教授)『知的生活の方法』(講談社現代新書、1976年)を読んで以来、熱狂的ファンになりました(当時の先輩にあたる教授たちの中には、この本に対して露骨に反感・嫌悪感を示す方もあったことを、先生の『発想法』新版の「まえがき」に書いておられます。まだ若僧の教師が何を言うか!生意気な、という感じだったんでしょうね)。現在でも着々と版を重ねるこのロングセラーは、当時まだ一般的でなかった書斎・エアコンの重要性を説くなど、不朽の名著となっています。渡部先生曰く、「これは自信を持って言えますが、僕はこの本に書いたことを全部実行し、おかげで世界有数の個人蔵書を持つこともできた。嘘を書くくらいなら本など書かないことです」と。渡部先生は、この本の34年後、傘寿を迎え『知的余生の方法』(新潮社、2010年)を刊行なさいます。「特に世の中は変わったな。僕は当時、多くの人を怒らせたんですよ。当時は左翼全盛ですから、個人が書庫を持つなんて贅沢だ、それより図書館を整備する方が社会のためだと、綺麗事を並べた人が何をしました?そうこうする間にネットで何でも調べられる時代になり、建前や偽善は何も生まなかった。つまり世の中がどうなんて考えても始まらない、人間は自分がやりたいことをやるのが一番で、僕は個人の財産も所有欲も否定しません」 私は、先生の著書、論文、雑誌に至るまで、手に入れられるものはそれこそ全部入手して読み漁ってきました。松江にご講演にいらっしゃった時に、知人が会わせてあげようと紹介してくださって、夢心地でホテル一畑」で初めてお会いさせていただきました。ものものしい警備の中、別室で握手していただいたときの感激は忘れられません。『ライトハウス英和辞典』(研究社)を編集委員として出版した際には、「推薦文を書いてあげよう」とおっしゃって下さり、天にも昇る思いでした。3年前に私が退職した際には、あの達筆な書で(先生は長年書を習っておられました)ねぎらいのお言葉を頂きました。私の宝物です。このブログでも、度々先生のことを取り上げています。残念ながら、先生は、2017年4月17日に86歳でお亡くなりになりました。⇒私の追悼記事はコチラです

 そんな渡部先生の余り知られていないエピソードを、不定期でご紹介してみようと思います。今日はその第1回目です。

◎健康でいる限り貧乏なんて恐くない!◎

 先生は、若い頃は非常にストイックな生活を送られました。お金がなかったせいでもあるのですが、その頃の経験が、以後の学究生活に大きな影響を与えておられます。山形県の田舎から東京の上智大学(当時はまだ私塾のような学校だった)に入学した渡部先生は、親からギリギリの仕送りをもらって授業料を払っておられたんですが、大学1年生の半ばに、お父さんが失業したために、次の年からは仕送りを受ける見込みが全くなりなります。奨学金授業料免除がなかったら、それこそ退学の絶体絶命の状況でした。授業料免除は学科で成績1番になれば取れるので、先生は全教科100点を取るべく必死で勉強されました。⇒コチラ 成績が1番とか2番とかいうと、どうしても同級生との競争になるわけで、他の人の成績を気にしながら勉強するというのは気詰まりです。そこで全科目100点を目標とすると、焦点がはっきりして、やることがくっきりと明確になったのでした。一日の授業が終わると、どこにも寄らずに真っ直ぐ寮に帰ってすぐに勉強です。進駐軍のカマボコ兵舎を転用した学生寮に住んでいました。寮の消灯時間は11時ですから、夜中に勉強するわけにはいきません。毎朝4時45分に起きて、水をかぶって気合いを入れる。これは羽黒山の修験行者のイメージがあったのかもしれない、と回想しておられました。1日の最初にしんどいことをやってしまうと、大概のことはおっくうでなくなり、後は大したことはない、どんなことでもやれるという気分になれたそうです。そして早朝2時間勉強しました。

 その一方で、必死の思いで倹約しておられます。1ヶ月の生活費が当時2,000円ぐらいでした。寮費が3食付きで1,500円ですから、小遣いや自由に使えるお金はほとんどありませんでした。遊ぶお金はありませんから、部屋に籠もって四六時中本ばかり読んでおられました。2ヶ月分くらいの奨学金がまとまって入った時には本を買いました。アルバイトはしませんでした。全科目100点を目標にしていましたから、バイトなんかやっている暇はないわけです。そんな時間があったら勉強です。東京では喫茶店に一度も足を踏み入れたことはありませんし(唯一の例外は、たった一回だけ先輩にコーヒーをおごられたことぐらい)、映画館に入ったこともないし、遊びに出かけるということもありませんでした。先生は「東京では映画は絶対にみない」という方針を立てていました。同級生に過激派の運動から逃げるために早稲田から転学してきた男がいて、「『麦秋』という映画はいいから見に行こう」と先生を誘います。先生が「俺は行かないことにしている。東京で行かないのは俺の伝統なんだ」と言うと、「伝統だなんて…」と嘲りました。以降いっさい行かなかったら、そのうちに一目置かれるようになったそうです。そんな余裕はないし、お金ももったいない。時間ももったいないという心境ですね。

 そうそう、1回だけ夏休みの2週間田舎に帰った時、恩師に「非常に優秀な子供がいる。どうしても外交官になりたいとお母さんが言っているから家庭教師をしてくれないか」と、どうしてもと頼まれて、英語の家庭教師のアルバイトをしたことがあります。夏休みだからまとめて本を読みたい先生は、その時間をアルバイトに取られるのは耐えがたいことでした。そこで先生は1日が始まる前の時間なら教えてもいいと、毎朝3時半に起きて、朝の4時から英語を教えておられます。家から15分ぐらいのところの家へ自転車で行って、1時間半ほど教えて帰ってくるというスケジュールでした。朝の6時からは自分の勉強を始めたかったのです。その少年は、将来外交官になるための受験勉強だったので、特に英語に力を入れたいということで、英文法を二週間、毎朝二時間やれば一応成果が上がるだろうということで引き受けました。先生の教え方は、英文法を教えるのに相当迫力があったようで、その少年は語学の方が好きになってしまい、その後言語学者になり、都内の某大学の教授となりました。今ではちょっと考えられないエピソードですね。1回100円のアルバイト料でした。2週間続けて1,400円もらい、これで以前から欲しいと思っていた本を買おうと思っていました。

 当時、先生の実家では、代々、真っ黒なネコを飼っていました。ところが、そのネコが病気になってしまい、放っておくわけにもいかず、獣医の所に連れて行き、注射をしてもらいます。治療代はいくらかと聞くと、1,500円だと言います。せっかくもらったバイト料がたちまちにして吹っ飛んでしまいます〔笑〕。シャクにさわってしょうがなかった、と回想しておられます。こうして先生は、お金も最小限に切り詰め、時間も切り詰めて、ご自分の勉強に打ち込んでおられたのです。でもちゃんと見てくれている人はいるもので、救いの手が差し伸べられ、鶴岡の風間家の奨学金(年3万円)、旧藩主酒井家と酒田の本間家の奨学金(2ヶ月ごとに1,400円)、地方の団体の奨学金を2つもらえるようになりました。これに日本育英会の奨学金(月2,000円)をもらい学生寮から通いました。若い頃の貧乏な生活を回想して、ストイックな生活をしていればおのずと道は開けてくるものだ、と実感しておられます。極限に近い体験が、健康でさえいる限りは、貧乏というのは最終的にはちっとも恐くないものであるということを、教えてくれたのでした。(→以下(2)に続く。お楽しみに)❤❤❤

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