ボリンジャー博士との出会い

 平成21年11月、島根県立松江北高等学校の学校だより「あかやま」第210号に、私は次のような一文を寄せています。

   ボリンジャー先生との出会い~一冊の本との巡り会い

                                                                                                  図書部長 八幡成人

 「一冊の本との巡り会いが人の人生を変えてしまう」私もそのような一人である。時は大学二年生の秋、書店で偶然見つけた一冊の洋書Dwight Bolinger, Aspects of Language 2(ドワイト・ボリンジャー『言語の諸相』)との出会いがその後の運命を大きく変えることになる。英語の大好きな若者が、この本を読んで言語観察の緻密さに心を動かされた。そこで、気がついた幾つかの誤植と共に感想やら、オカシナ(!)記述の指摘やらを書き綴って、アメリカの出版社気付けで送った。送ってしまってから、この著者が何とアメリカ言語学会の会長さんであることを知らされる。一介の大学生ふぜいが、時の大学者に失礼な手紙を送ったものである。ところがである。2週間もしないうちに一通の封書が自宅に届く。「数々の指摘をありがとう。ご指摘の点はもっともで次版から訂正する。ついては君は英語にとても興味がある様だから、最近自分が書いた本を別便で送ったから読んで欲しい」とのこと。狂喜乱舞とはこのことである。数日後に届いた薄い(が高価な)書物を角から角まで興奮して読んだのを今でもはっきりと覚えている。以来、分からないことがある度にお手紙して教えを乞うようになった。几帳面な博士は2週間後に必ず詳細な返事が届く。
 その後、「宝島事件」と呼ばれる業界では有名な忌まわしい出来事をきっかけに、私たちの『ライトハウス英和辞典』に顧問としてご参加いただき、語法の記述に一層の正確さを期そうという話が持ち上がり、私がその連絡係を務めることになる。会社に全国の生徒・先生方から寄せられた疑問に対して、ボリンジャー先生に確認を取って、数行の語法注記を私が書く。そしてその記述の後には((Bol.))というマークが入ることとなった。これは日本の学習辞典界では画期的なことであった。西洋の学者は何かをお願いすると必ず謝礼のことを細かく聞いてくるが、ボリンジャー先生はお金のことに触れられることは一切なかった。純粋に英語を愛しておられる先生であった。どの会派にも属さず、一匹狼でご自分のことをdevil’s advocate(この表現分かりますか?)と呼ばれていた。何百通のお手紙を差し上げたことだろう。いつの日か「君の手紙は全てファイルして取ってある。一度見に来ないか」とご招待をいただいたが、それも果たせないまま、お亡くなりになってしまったことが返す返すも残念である。ご病床からの最後のお手紙は「もう手紙も書けなくなった。今病室から代筆の人に頼んで君の質問に答えている」という壮絶なものだった。先生のお書きになった著書、論文は全て私の書斎に揃っている。先生の特集が言語雑誌で組まれると、決まって私の所に写真を貸して欲しいとの依頼が来るのも、息子さんから生前の先生のプライベートなお写真を預かっているからである。ボリンジャー先生の伝記、生前のご活躍、日本での影響力について1冊の本にまとめることを息子さんにお約束し、すでに出版社も決まっているのだが、忙しさにかまけてまだ実現していない。
  高校時代英語を教えて頂いた故大谷静夫先生(東京大学卒)の米子のご自宅には、何度も本を借りにお邪魔した。先生の英語を読まれるスピードは並外れたものだった。エド・マクベイン、ロアルド・ダール、夢野久作を教えていただいたのもこの先生である。お亡くなりになった時に、「英語の本は全て八幡に送ること」とのご遺言で、奥様から英語の本を全てお譲りいただいた。4年前家を新築した時に、特注の書庫にプレートを掲げて全て収めさせていただいている。本との巡り会いに関しては、結構恵まれている八幡である。

 これが私とボリンジャー博士との出会いです。書店で偶然見つけた一冊の言語概論書を、面白くてむさぼるように読んだ後で、気の付いたいくつかの誤植や感想やらを出版社気付けで送ったところ、二週間後にご本人のボリンジャー博士から、上に述べたようなお手紙が届いたのです。さらには、薄い(がとても高価な)創刊されたばかりの書物(Forum Linguisticum)が送られてきて、隅から隅まで興奮しながら読んだのを、今でもはっきり覚えています。以来、博士の書かれた論文・書物をむさぼるように読みふけりました。以来、困った問題点・疑問点が起こる度に、先生のお手を煩わせては、その悩みを解決していただきました。いつも几帳面にタイプされたお手紙の全てはファイルして取ってあります。例の「宝島事件」をきっかけに(この事件をご存じない方はコチラをご覧ください)、主幹の故・竹林 滋先生(東京外国語大学名誉教授)の命で、何とかボリンジャー博士を編集にご参加していただけないか頼んでみてくれとのことで、お願いすると快くお引き受けいただきました。竹林先生から回された語法上の疑問点を、私が英訳してボリンジャー先生に送り、ご回答をまとめて整理するという連絡係を仰せつかります。博士と仕事をご一緒させていただく中で、言語研究に対する変わることのないひたむきな情熱と、体制に流されることのない首尾一貫した研究姿勢を、いつもひしひしと感じていました。

 博士は、1907年にカンザス州に生まれ、1936年ウィスコンシン大学でPh.D.を取得後、多くの大学の教職を経て、1963年より1973年までハーバード大学教授。1972年アメリカ言語学会会長、1975年カナダ・アメリカ言語学会会長を務め、定年後は著作活動に専念されました。ハーバード大学(ロマンス言語文学)スタンフォード大学(言語学)の名誉教授です。骨髄腫(myeloma)との闘病で、1992年2月23日にお亡くなりになりました。博士のお仕事の全貌はコチラで詳しく見ることができます。♥♥♥

▲お孫さんのBruce McClureさんと(1987年10月1日)

 

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