大好きな西村京太郎先生の1983年の作品に、『札幌着23時25分』(角川書店)という作品があります。大雑破なあらすじは次のようなものです。
法の網を潜り抜けてきた暴力団川田組。そのトップである川田組長を有罪に追い込む重要な証人を警察捜査陣はやっと手に入れることができた。ところが東京から札幌地裁まで証人を連れて行かなければならないのに航空ストが発生。タイムリミットは深夜零時。それを超えると川田組長を釈放せざるを得ず、国外逃亡を許してしまうことに。証人を連れて東京を出発した十津川警部の行く手には、それを阻止せんとする川田組弁護士佐伯の手の者が…。チャーター機、列車、東北新幹線、車、船と互いにあらゆる交通機関に人員を配置し、狙う側と守る側の死力を尽くした戦い・知恵比べが始まる―という話。
悪徳弁護士(狙う側)と十津川警部(守る側)の華麗なゲームが展開するのですが、これがハラハラ・ドキドキ、息も吐かせず最後まで読ませてくれます。いつものトラベル・ミステリーではなく、トラベル・サスペンスとなっています。いつもなら十津川警部が犯人を追い詰めていく展開なのですが、今回だけはそれが逆転、追われる立場となる点が斬新です。そのことは著者の西村先生の最初からの狙いであったことが、初版本のカバーにある「作者のことば」にもはっきり書かれています。
限られた時間の中での追いかけっこを書きたいと思っていた。それも、追われるのが警察で、追いかけるのが犯人側という、逆の立場の追いかけである。いつも追いかける側の警察が、追われる側に立った時、果たして、上手く行動できるのか?この作品で、捜査一課の十津川警部たちは、守る側、追われる立場に立たされて、悪戦苦闘する。果たして、勝てるかどうか、見守っていただきたい。(西村京太郎)
◎なぜ戦争を書くのか? ?
スリルとサスペンスに富んだ一進一退の攻防に読み応えがあります。西村先生の古い作品には、このようにぐいぐい読ませるような作品が多いんです。特急列車に仕掛けられた大胆なトリックも、大きな魅力の一つでした。ところが、西村先生の近年の作品はどうも趣が異なってきたんです。トリックは影を潜め、別の要素「戦争」が色濃く描かれ出したのです。殺人の動機や背景にしばしば顔を出し、十津川警部たち戦争を知らない若い世代の刑事たちが捜査を進めていく中で、今なお人々の心に影を落とす戦争の不条理といったものに触れていくのです。この傾向が顕著に見え出したのは、太平洋戦争終結から70年を迎えた2015年でした。実業之日本社文庫の『十津川警部 八月十四日の殺人』(2015年)や、『十津川警部 北陸新幹線殺人事件』(2016年)や実業之日本社創業120周年を記念して書き下ろされた『二つの首相暗殺計画』(2017年)などで、精力的に戦争を背景にした長編を発表しておられます。先生によれば、時代の流れが戦争に向かっているようで、実際に戦争の時代を生き抜いた人間がどう考えていたのかを書いておこうと思ったそうです。西村先生は14歳で陸軍幼年学校に入学、戦争には行きませんでしたが、すでに配色濃厚で、本土決戦が近づいて死を覚悟しておられます。当時の心境や戦争観は、『十五歳の戦争 陸軍幼年学校「最後の生徒」』(2017年)に詳しく語られています。
では西村先生は、それまでなぜ戦争を正面から取り上げることがなかったのでしょうか?『中国新聞』の2020年8月20日付けのコラムで、論説委員の森田裕美さんがインタビューを試みておられました。戦闘を経験した上の世代と違い、自分には戦闘の経験がないことに気が引けていたといいます。戦闘を直接経験した人たちが戦争を書くべきだと思っていました。しかしそうした世代は次々と世を去り、当時の記憶はどんどん失われていきます。西村先生世代が戦争を知る最年長者となり、「私たちが戦争を書いていかなければならないと覚悟を決めるようになりました」と。戦闘は分からなくても、銃後は分かる。戦地に赴いた人と過ごした経験もあり、闇市や進駐軍といった戦後も知っている。そんな視点からなら、自分にも書けるのではないのかと思ったと言います。あくまでフィクションですが、戦争を知らない世代が、敗戦後に生きた人たちの暮らしぶりや心情へと想像を広げ、あの戦争とは一体何だったんだろう?に思いを致す手助けになればと思って、西村先生は娯楽を通じて戦争を描いておられるのです。戦争や被爆の体験はなくても、自分が聞いたり受け止めたりした記憶を、文字に、絵に、音楽にすることで、見る側は心揺さぶられるのです。自分なりの表現で伝えていくことが重要なのだと思います。
最新刊『二つの首相暗殺計画』(実業之日本社、2020年10月)の解説で、西村先生の一番の理解者・山前 譲(やままえゆずる)氏が、『対談 戦争とこの国の150年』(山川出版社)の中で、西村先生と保坂正康氏との対談で、このように述べておられたことに触れておられます。
国民が戦場に行くわけじゃないけど、次第にその気になってくるというか、
国民全般に何となく「戦争やむなし」という気分が醸成されつつあるんじゃな
いかと思うんです。
昭和16年に日米が開戦する前だって、やっぱり似たような雰囲気だったん
です。「日米いざ闘わば」みたいな架空戦記ものがすごく流行っていまして、
『少年倶楽部』の「見えない飛行機」(山本峯太郎)なんか読んで、子どもは
みんなアメリカなんか新兵器でやっつけちゃえーなんて。僕らも当時、戦争が
どんなものが知らないもんだから、恐ろしさも何もないんですよ。
今の日本も、もう戦争を知っている世代はほとんどいませんから、それなら
自分なりに作家として少しでも伝えたいと思いまして。
さて話は戻って『札幌着23時15分』(1983年)ですが、読んでいると、悪徳弁護士・佐伯の言葉を借りて、戦争に対するショッキングな思いが語られます。すでにこの時期から、西村先生の心の中には、「戦争」が色濃く影を落としていたんですね。引用しておきます。
佐伯は、戦争を知らないが、戦争のために、被害を受けた世代である。
戦争の悲惨さだけを知らされて育った。それを、佐伯は不公平だと、いつも
思っていた、
今度の戦争で、何百万人もの日本人が死んだ。彼等は、一様に、戦争の犠牲
者だといい、戦争の悲惨さを口にする。
しかし、佐伯は、その言葉を信じないのだ。
戦争がただ悲惨なだけなら、なぜ、懲りもせずに、人間は、戦争をやるのか?
ひたすら、戦争の犠牲者面をしている老人たちの顔に、佐伯は嘘を見るのだ。
弁護士という仕事がら、佐伯は、さまざまな人間に会うが、その中には、今
度の戦争で、中国や、南方で戦った男も、何人かいた。
彼等は、素面のときは、戦争は悲惨だし、二度と、ごめんだという。
だが彼等は、酒に酔うと、少数の例外をのぞいて、戦争中の自慢話を始める
のだ。
どんなに、戦争というのは、楽しいかを、とくとくと喋る。
あの教科書問題の最中に、佐伯は、六十歳の男と知り合った。川田組の人間
ではなく、平凡なトラック運転手である。
戦争中、中国戦線で、下士官として戦っていた男だった。
彼は、戦争は、もうこりごりだといい、中国で悪いことをしたのは、謝罪し
なければならないと、佐伯にいった。だが、彼は、酔い出すと、今度は、中国
で、中国人の娘を、いかにして、暴行し、殺したかを、得意気に喋り始めたの
だ。そこに、反省の色など、みじんも感じられなかった。
彼にとって、戦争は、悲惨どころか、華やかで、素敵な経験だったのだ。も
し、戦争がなかったら、彼は、多分、平凡で、面白くも何にもない生活を送っ
ただろう、ところが、戦争で、彼は、ただで船に乗って、中国へ渡り、何人も
人殺しをして英雄になり、中国の娘を暴行することも許された。口では、中国
人に対して、申しわけないことをしたといいながら、あの戦争の何年間は、も
っとも、楽しく、充実した時期ではなかったのか。
佐伯は、日本人の反省など、インチキだと思っていた。特に、戦争へ行った
男たちの反省はである。彼等は、最後には、戦争の悲惨さを味わったかもしれな
いが、その前には、戦争の楽しさを味わっていたに違いないからである。
そのくせ、口を開けば、「戦争は悲惨なものだ」と、くり返す。嘘をつけと、
佐伯は思う。 (pp.140-141)