渡部昇一先生のエピソード(8)

※私の尊敬する故・渡部昇一先生のエピソードを紹介しています。前回(7)はコチラです

 渡部昇一先生が、初めて限界というか壁に突き当たったのは、大学生時代でした。18歳で上智大学に進学した先生でしたが、今と違い、当時の上智大学は全く無名の大学で、学生数も1,000人もいませんでした。高校卒業の際には総代になった渡部先生は、成績が良かったにもかかわらず、東大京大に行った仲間たちとは一線を画し、先生だけがなぜか誰も知らない大学に行ったんですね。自分の信念で大学を選んだにもかかわらず(先生は将来英語の先生になる夢を実現するために、外国人がいっぱいいて本物の外国文化に直接触れることのできる上智大学を選んだのです)、やはりカクッとくることが何度もありました。田舎に帰省したときに、仲間たちと会うと、お前どこ行ってんだ?」ということになり、上智だ」と言うと、それどこにあるのかな。京都あたりのお寺さんか?」などと言われるのです。好んで有名でない大学を選び、自らに問いかけ、考え抜いて入学したつもりでも、実際には若い青年ですから、クソッ!」と思って、憂鬱になったといいます。青年時代は、やはりなるべく有名な大学に入りたいと、誰でも心のどこかには思っています。

 そこで先生はどうしたか?そういうことは一切無視して、今自分がやるべきことは、自分なりに一番無駄のない勉強をするしかない、そこだけしか生きる道はないと思ったのです。人の言うことなど気にせずに、自分の納得できる勉強さえしていればよいのだという思いです。当然成績は一番でした。

 大学2,3年の頃に、アメリカ留学の話しが持ち上がります。成績の良かった渡部先生は、自分が選ばれるものと思っていました。ところが実際には、「渡部は社交性がない」という理由で、自分より成績の下の人が選ばれました。いかにも「お前は駄目だ」という烙印を押されたような気がしたと言います。貧乏学生で服装はいつも着た切り雀、喫茶店などに入る余裕もなく、勉強勉強の生活です。遊んでいる暇などありませんからね。そんな様子を、アメリカ人教授は「非社交的」と判断したのでした。それでも先生は腐ることなく、ひたすら全科目百点を目指して勉強を続けます。先生の専攻する英語学はイギリスよりもドイツが進んでいると聞き、ドイツ語の勉強も怠りませんでした。誰だって意気消沈しますね。しかし先生はこの時点でも、自分でできることは何かと考えてみます。自分はこの学校を選んで全力をあげてやってきたのだから、それでいいんだと考えました。勉強するしかないんだ、と。留学させてくれるのはアチラ様なんだから、ばたばたしたってはじまらない。他人が行こうがどうしようがそんなことに惑わされずに、自分の初心を貫いていくという姿勢をくずすまい、と。その結果、その後ヨーロッパ(ドイツ・イギリス)へ留学させてもらい、博士論文を書かせてもらい、1発でOKとなり、この分野では日本人で初めてヨーロッパで出版することになったのです。

 限界にぶつかって暗礁に乗り上げた時も、焦らず、初心に向かって確実に邁進したことがよかった、と渡部先生は回想しておられます。気付かないようでも、誰かがどこかで必ず見てくれています。❤❤❤

「がんばっても がんばっても うまくいかない でも気づかないところで 誰かが きっと見てる」(小田和正 「東京の空」) 詳しくはコチラをご覧ください

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