独創的な絵本や風景画で人気を集めた、島根県鹿足郡津和野町出身の画家・安野光雅(あんの・みつまさ)先生が、昨年12月24日午前8時20分、肝硬変のため死去されました。94歳でした。
1926年島根県津和野町の旅館に生まれ、13歳まで過ごしました。学校が嫌でいわゆる不登校児でしたが、文学や自然科学など幅広い分野への関心は尽きませんでした。戦後、復員して山口県で代用教員になり、上京後、小学校の美術教員を経て、1961年に画家として独立。美術学校に通ったわけでも、誰かに師事したわけでもなく独学でした。1968年、当時は珍しかった文章のない絵本『ふしぎなえ』で絵本作家としてデビューしました(42歳)。階段や水の流れの先を目で追っていくと、さかさまになったり、元に戻ったりと、楽しさにあふれぐいぐい引き込まれていきます。空想を膨らませることが、先生の作品の源泉だったに違いありません。エッシャーのだまし絵や心理学の図案に影響を受けて視覚的トリックを用いてアルファベットを描いた『ABCの本』、想像力を刺激する『さかさま』など、遊び心に富んだ独自の作風を確立し、多くのファンを獲得。『旅の絵本』は世界各地を舞台に、繊細な筆遣いで旅の楽しさを描いてシリーズ化されました。その作品は海外でも高く評価され、1977年『あいうえおの本』で「BIB金のりんご賞」、1978年『安野光雅の画集』で「ボローニャ国際児童図書展グラフィック大賞」、1984年には「児童文学のノーベル賞」といわれる「国際アンデルセン賞画家賞」を受賞しました。1983年には「サンケイ児童出版文化賞」も受賞しておられます。温かみのある淡い水彩画でも知られ、司馬遼太郎の紀行文「街道をゆく」の装画や、多くの風景画を生み出しています。古典にも題材を求め、『繪本 平家物語』『繪本 三國志』を残しました。科学・数学・文学など幅広い分野に造詣が深く、森鴎外訳『即興詩人』の口語訳やユーモラスなエッセーなど多岐にわたる文筆活動でも多くの世代に支持されました。1988年に「紫綬褒章」、2008年には「菊池寛賞」を受賞。2012年に「文化功労者」に選ばれました。
安野さんにとって絵とは何ですか、と尋ねられた時の答えが実に先生らしい。「生活の手段としか言いようがないです。芸術です、なんて美化するとウソになっちゃう。でも、最後に残るのは誇りだと思います。プライドが許さないという言葉は間違っていて、プライドさえあれば多くのことは許せると思うんです」 安野先生の心にはいつも故郷・津和野がありました。「あの山と川と道はいつも私の中にあるんです。故郷に帰るとすぐ津和野弁になる。津和野へ帰るのは、いまでも子どものころに帰る旅です」
私は安野先生の出身地津和野町で、三年間、津和野高校の教壇に立っていました。JR津和野駅の正面には、先生が75歳の誕生日を迎えた2001年3月20日、赤い石州瓦(せきしゅうがわら)にしっくいの白壁の「町立安野光雅美術館」がオープンしました。今年で開館20年を迎えます。私は疲れた時には、ここへ出かけ(町民は当時無料、途中から財政難で半額)、先生の温かい作品や、子どもが書いたような習字作品を飾った昔ながらの木の教室、プラネタリウムなどで癒されたものです。安野先生
の遊び心が満載の仕掛けに富んだ美術館で、当時親交のあった皇后・美智子さまも来訪されました。2017年には京丹後市久美浜町に、建築家・安藤忠雄さんの手になる「森の中の家 安野光雅館」が建てられ、私は大雪の中を訪れて安野ワールドを堪能しました。⇒私の訪問レポートはコチラ 『産経新聞』で2018年12月まで連載されていた、「安野光雅が描く 洛中洛外」は毎週楽しみにしていたものです。安野先生はエッセイを書かせても一流の文筆家でした。昨年の『私捨悟入』(朝日新聞出版)が遺作となりました。合掌。♦♦♦