稲盛和夫さんの哲学

 私の尊敬する人に稲盛和夫(いなもりかずお)さんがおられます。稲盛さんは鹿児島市の城西町に生まれました。1945年、13歳のときに結核に襲われます。当時結核といえば、恐怖の病であり、長年の療養を要する難病中の難病でした。この年の三月に、鹿児島第一中学の入試に再度失敗しておられます。仕方がないので、私立鹿児島中学に入りました。次に高校進学を目指しますが、「学校へはやれん。うちは苦しいのだからお前は働け」と父に反対されます。何度か説得して高校へ進学します。勉強だけでなく、アルバイトや家の手伝いもすることになりました。次は大学進学です。やはり父は反対しますが、数学の先生がわざわざ家を訪ねてくださり、説得してくださり、奨学金とアルバイトで学費を賄うことを条件に大学進学が許されます。まずは大阪大学を受験しますが、不合格。当時駅弁大学と言われていた、鹿児島大学の工学部に進みます。専門は応用化学です。就職試験も帝国石油の入社試験を受けますが、不合格。いくつかの会社に挑戦しますがいずれも不合格。ようやく就職したのが、京都の松風工業という電線に使う碍子を作る会社。当時は第一銀行から社長を派遣されるほど業績が悪化しており、給料の遅延も度々でした。「こんな会社だからこそ、三流大学のオレを採ってくれたのか」と嘆きます。稲盛さんは、松風工業で弱電洋セラミックスの研究と製造に当たり、それなりの業績を上げていましたが、入社四年後の1959年、「お前さんの頭ではもう無理だ。外の技術を導入してセラミック真空管の開発を行う」という新任上司の心ない一言が契機となり、「では会社を辞めます」と申し出ます。ところが、会社にいて稲盛さん(当時27歳)の可能性を見抜いていた青山政次さん(56歳)が「新しい会社を作りたまえ。応援する」と言ってきます。周囲は反対しますが、青山さんの熱意と稲盛さんの人物に動かされ、協力して稲盛さんの支援をすることになりました。ここに誕生した会社が「京都セラミック」(京セラ)でした。その後の京セラの発展はご承知の通りです。そしてKDDIを成功に導き、日本航空の奇跡の復活を成し遂げたのです。

 ここで肝に銘じたいことは、たとえ三流だとバカにされても、落後しても、劣悪な条件が重なっても、本人に志さえあれば、大成できるということです。

 私が愛読している月刊『致知』(致知出版)の今月4月号は、「稲盛和夫に学ぶ人間学」という特集です。山中伸弥さん(京都大学iPS細胞研究所所長)、永守重信さん(日本電産会長)など、稲盛さんに影響を受けた数多くの人が寄稿しておられます。意外だったのはシンガーソングライターの長渕 剛さんでした。稲盛さんの「利他の心」「動機善なりや、私心なかりしか」「思いは必ず実現する」「人間として何が正しいか」といった哲学に引き寄せられた人たちばかりです。稲盛さん自身の人生の要諦を説いた言葉です。⇒コチラに私の稲盛人間学解説が

 災難や苦難に遭ったら、嘆かず、腐らず、恨まず、愚痴をこぼさず、ひたすら前向きに明るく努力を続けていく。これから将来、よいことが起きるためにこの苦難があるのだと耐え、与えられた苦難に感謝すること。よいことが起きれば、驕らず、偉ぶらず、謙虚さを失わず、自分がこんなよい機会に恵まれていいのだろうか、自分にはもったいないことだと感謝する。これが素晴らしい人生を生きるための絶対の条件です。(稲盛和夫)

【追記】 あのスプーン曲げで一時代を画したユリ・ゲラーさんが来日したとき、東海大学の大型電子計算機を念力で止めるという無謀な挑戦にトライしました。最初の日、彼は東海大学の電算機室に入り、三時間頑張りました。しかし、電算機は止まりませんでした。翌日、もう一度行き、もう三時間粘りました。そして二日目の二時間五十九分が過ぎたときに、大型計算機は、ついにストップしたのです。信念を持って諦めずに忍耐することの大切さを教えてくれる実話です。最大の成果は、しばしば最後の最後の瞬間に出現するのです。

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