昨日に続いて、西村京太郎先生の『特急ゆふいんの森殺人事件』(新装版、文春文庫)の描写から取り上げます。ここに一番有名な旅館として「玉の湯」が出てきます。「亀の井別荘」、「由布院玉の湯」、「山荘無量塔(むらた)」の三つは、「湯布院の御三家」として、憧れの高級旅館として名を馳せています。私も以前「玉の湯」に泊まったことがあります。教え子がぜひにと手配してくれたお宿でしたが、老舗だけあって、そのサービスの細やかさやお料理の質には感動したものです。
橋本は、駅前のタクシーのりばで、タクシーを拾うと、「ここで、一番、有
名な旅館へ行ってくれないか」と、いった。
「有名なねえ」運転手は、考え込んでいる。
「一番古いのでもいいよ」と、橋本は、いった。そういう旅館の主人なら、
この土地の有力者で、何か調べて貰うのには、便利だと、思ったからである。
「じゃあ、玉の湯かな」と、運転手は、呟いてから、車をスタートさせた。
(中略)
玉の湯も、道路沿いの普通の旅館で、温泉旅館の感じではなかった。
雑木林の中に、独立した棟が置かれていて、それが、食堂であり、休憩室で
あり、客室なのだ。
予約してなかったが、幸い、タクシーの運転手が、玉の湯の主人をよく知っ
ていて、何とか、泊めて貰えることになった。
雑木林の中の小道を入っていくと、喫茶室や、食堂などが、見えた。
橋本を案内した従業員が、「ここで、少しお待ち下さい」と、待合室でいっ
た。
山小屋風の造りで、暖炉では、薪が燃えている。
(中略)
中年の女従業員が、お茶と、菓子をを持ってきてくれた。
(中略)
「これが、お客様のお部屋のカギです」と、いい、更に、奥に進んで、
「ここです」と、いった。
どの部屋も、独立していて、日本風の格子戸がついている。
「さかき」という名前の部屋だった。
三村が、カギをあけてくれた。橋本も、中をのぞいてみた。
玄関があり、ゆったりした和室、その奥には、ツインのベッドの置かれた
寝室、そのまた奥は、バスルームになっていて、大きな檜の風呂に、温泉が
あふれていた。
「いい部屋ですね」と、橋本は、お世辞でなく、いった。
和室の障子を開けると、庭になっていて、その向こうは、雑木林だった。
「雑木林の中に、この旅館をつくられたんですか?」と、橋本が、きくと、
三村は、笑って、
「どなたも、そうおっしゃるんですが、実は、この辺りは、水田でしてね。
それを埋めて、雑木林を、作ったんです」
「作られた雑木林ですか?」
「そうです。全く、自然のように見えるでしょう。手を加えていないように
しているというのが、私のところの社長の自慢なんです。自然らしさが、一番
いいと、いわれましてね」