渡部昇一先生のエピソード(10)~尊敬できる師

 故・渡部昇一先生は、修練(操行)の点が「良」の生徒でした。「修練 良」というのは、「修練 秀」が優等生、「修練 優」が普通、「修練 良」は担任の先生ににらまれている、「修練 可」というのは停学などの処分を受けた生徒です。「修練 良」の先生は、毎日面白くもない思いで、日々学校に通っていました。にらまれた理由は、つまらない英語の授業中に、机の下に隠しながら小説を読んでいたのを見つかったためでした。渡部先生は本を読むのが大好きで(先生のあだ名は「文士」「小説家」でした)、当時読みふけっていたのが捕物帳でした。『右門捕物帳』『銭形平次捕物帳』が大好きでした。『名作主水捕物帳』を読んでいたところを、不幸なことに見つかってしまったのです。「何やってんだ!」一回目は叱られただけ、二回目は昼休みの時間なら構わないだろうと、少年講談の『三好清海入道』を読んでいたのに、その担任の先生は、自分の前に座らせてぶん殴り、本も取り上げられ、「退学しろ」と言ってききませんでした。これはもう、注意や怒りではなく、憎しみ以外の何物でもありませんでした。ようやく謝って許してもらった先生でしたが、その後すっかりにらまれ、何をやっても面白くなくなってしまいました。この英語の先生はどういうわけか、持ち物検査とか、授業とは関係ないことに熱心な人でした。中学の三年間は、先生は講談本と三文小説、それにヘボ将棋を指して暮らしていたようなものでした。勉強は試験に落ちないだけにして、学校のことはサボれるだけサボる。親を心配させたくないから、外見だけはちゃんと学校に行く。そんな学校生活でした。

 その担任の先生は英語科出身でしたが、なぜあのように病的に小説を憎んだのかは分かりません。英語の教師といえば、本を愛する人のはずが、本とそれに接する人間を憎むという「理不尽」の極みを体験することになりました。理屈など抜きに、とにかく上官が特定の部下を集中的にいびり倒すという、戦時中の軍隊のあのやり方です。「今から見れば、その担任教師は英文学などやる柄でなく、何となく英語をやって、戦時中のこととてただ小説好きの生徒をいじめることに熱中していたのであろう。その担任には知識愛とか学問への志向などは枯れ果てていたらしいのであるから、教え子の知識愛を引き出すわけにもいかなかったのだろう。当時のこととて私には自分の教師を批判するような気持ちはなかったのであるが、何となくこわいだけの存在になってしまっていた。」と、渡部先生は回想しておられます。こんな先生のせいで、渡部先生は英語が大嫌いだったのです。中学に入ってから最初の中間試験で、英語は赤座布団でした。落第点の科目には赤線が引かれる。これが赤座布団で、当時は成績の悪い者は容赦無く落第(留年)させられたので怖れられていたのです。こんな先生が、後年、日本を代表する英語学徒となられるのだから、人生は不思議ですね。

 そんな時に、運命的に、佐藤順太(さとうじゅんた)先生が現れます。先生は本物の学者で、本物の教養人でした。佐藤先生の授業は、フランシス・ベーコンのエッセイです。大学の教科書になるくらいにレベルの高い英語で、わずか三ページ進むのに一学期かかりました。先生に勧められて、単語を一つ一つOEDで調べたりするのが、楽しくて楽しくてしょうがありませんでした。こうして理系で英語嫌いだった渡部先生は、英語を本職にしようと決意したのでした。自分の先生を尊敬できるというのは、若い者にとって一つの潜在能力でした。先生はその後、師を愛し学問を愛することができるようになりました。この能力が大学生活をきわめて稔り豊かなものにすることになりました。自分の先生を敬愛することができ、知識を愛することができれば、勉強が生き甲斐になるからです。♥♥♥ 

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 私は師に恵まれました。小学校5年生・6年生と読書感想文の指導を受け、こんな先生になりたいと強く思った父親のような担任の井塚 忠(いづかただし)先生の存在が大きかったですね。鼻血を出して学校を休んだ私の家に、チョコレートをおみやげに(!)訪ねてこられ、締め切りが迫っている県に出す読書感想文の清書を頼まれました。ていねいに字を書くのが遅い私のために、夜中まで傍らで鉛筆を削って下さいました。二年連続で島根県庁に表彰式に連れて行っていただいた時に、記念に買っていただいた『怪盗ルパン』『西遊記』は、その後の読書好きな私の礎を築いてくれました。当時は丸々と太っておられ、生徒たちからは「デカカボチャ」という愛称で慕われていた先生でしたが、松江に帰って来てから、入院しておられると聞いて、広瀬病院にお見舞いに行ったときには、意識もなくガリガリにやせてチューブがいっぱいつながれていました。その一週間後にお亡くなりになりました。

 私を大学へ導いていただいた三島房夫(みしまふさお)先生からは、学生時代に沢山のことを学びました。休みの度に先生のお宅にお邪魔しては、本を借りたり、貴重なお話を伺うのが楽しみでした。お孫さんを北高で教えることになり、ほんのちょっとだけご恩返しができたでしょうか。

 高校時代からお世話になった大谷静夫(おおたにしずお)先生大谷先生の米子のご自宅にはよくお邪魔して本を借りていたのですが(夢野久作エド・マクベインロアルド・ダールを教えていただいたのも先生です)、時々料亭に美味しいものを食べに連れていってもらったりもしました。本当にありがたかったですね。私もよく教え子たちと食事やお茶に行く機会があるのですが、これも自分がそうやってご馳走してもらった当時の思い出が残っているからかもしれませんね。

DSC02117 大谷先生が退職後、突然お亡くなりになったときには、英語の本は全部八幡に送ること」と、奥様にご遺言なさったそうで、奥様からご連絡をいただき、有り難く全部大きなダンボール箱で何箱も大量に送っていただきました。当時は津和野高校の教員住宅暮らしで、開けて並べることもできず、そのまま段ボールに眠らせたままだったんですが、松江に帰って自宅を新築し、特注の書庫を作ったときには、一角にプレートを作ってコーナーに先生を偲びながら全部並べさせていただきました。私の大切な大切な宝物です。大谷先生は東京大学の文学部を出られた先生で、英書を読むスピードが桁外れに速いんです。「どうやったらそんなに早く読めるんですか?」と、いつも先生に食い下がっていたものです。毎日、米子から松江に当時国鉄の電車で通勤しておられて、荒島から乗ってくる私のために、満員の先頭車両でいつも座席を取っておいてくださいました。毎朝、先生の隣に座って、面白い本の話を聞くのが何よりの楽しみだったものです。

 大学時代は安藤貞雄(あんどうさだお)先生に可愛がっていただきました。教員になってからも、折に触れて教えをいただきました。『基礎と完成 新・英文法』(数研出版)で一緒にお仕事をさせていただいた時は、本当に嬉しかったものです。「若い友人」と前書きに書いていただいたり、講演会で私のことを取り上げていただいた時には、天にも昇る思いでした。

 大学生の時に差し上げた一通の手紙から、大言語学者(アメリカ言語学会会長)D.リンジャー(Bolinger)博士とのやりとりが始まり、数々の言語事実、言語研究の姿勢など、本当に多くのことを学ばせていただきました。先生を私達の辞書の顧問にお招きできた時の喜びは忘れることはできません。私の差し上げた手紙は全部取ってある、一度遊びに来ないか、と言っていただきましたが、願いは叶いませんでした。

 教員になってからは、辞書『ライトハウス英和辞典』(研究社)の編集作業を通して、竹林 滋(たけばやししげる)先生にいろいろなことを教えていただきました。夜中に先生から「……について調べてくれませんか?」と電話がかかってくる度に、気合いが入って仕事に精を出したことが懐かしく思い出されます。お亡くなりになり、もうお声を聞くこともできない。淋しい限りです。♥♥♥

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