さださんの借金

 

    『週刊文春』10月28日号で、さだまさしさんの借金が話題になっていましたね(「文春砲」ではないですよ〔笑〕)。1981年に、中国の長江を舞台にした映画を自分の資金で制作、ヒットはしましたが、それ以上に制作費は膨れ上がり、28億円の借金を背負いました。29歳のさださんが選んだ道は「歌で返す」というものでした。年間100本以上のコンサートを継続。30年かけて完済します。

 その昔2016年11月8日(火)、午後8時からテレビ朝日系列「人生で大事なことは…”○○から学んだ!”」に、さだまさしさんが出演し、映画『長江』で背負った28歳で35億円(28億円+金利)の借金返済について生々しく語られました。また『BIG tomorrow』 2017年2月号(青春出版社)では、「借金があったから頑張れた!僕のお金と幸せ人生道、今も驀進中」と題するインタビューで回想をしておられます。「関白宣言」「親父の一番長い日」「北の国から」など誰もが知る名曲を多数生み出し、これまで開催したコンサートは通算4500本を超えました。しかし、その大記録の裏には10ケタを超える「借金」という、やむにやまれぬ事情もあったのです。借金を返し、スタッフを食わせるためには懸命に働くしかなかったのです。せっかくの機会ですから、さださんの「今振り返るなにくそ!人生の軌跡」をたどってみたいと思います。

 大借金の原因となったドキュメンタリー映画『長江』は、1980年代当時の長江沿岸の街並みや、中国国民の姿を映像に残した貴重な記録としても評価されているものですが、決して興業が失敗して借金を負ったのではないんです。興業的には成功を収めているんですが、元手(製作費)をかけすぎたのがいけませんでした。借りる方も借りる方ですが、貸す方も貸す方ですね。さださんは、完済後のトークイベントなどでは「貸した方もプロだから、さだなら返せるとふんだのでしょう。そう思ったら、自分も一生懸命返すしかないと思った」と語っています。同時に「過払い金とかなかったのかなぁ…。ちゃんとした銀行だから、それはないか?!」と、お得意の話術で笑いをとっています。この辺にも、転んでもただでは起きない、負けじ魂や人生観がにじみ出ます。

 1981年、28歳のさださんは、中国大陸を流れる大河・揚子江を舞台にしたドキュメンタリー映画『長江』(主演・監督・音楽=さだまさし)を制作します。「大河の最初の一滴を見たい」という企画の実現を一番望んだのは、さださんのお父さん・雅人さんでした。戦争中兵隊として中国にいたこともあるし、祖父への思いからも中国で映画を撮りたかったのでしょう。「今、長江を撮影する企画は6カ国が競合している。おたくの会社を調べたが、大変小さい会社だとわかった。しかし、お金が仕事をするのではなく、人が仕事をするのだから、最も優れた企画を出した貴社に撮影の権利を与える」と中国から返事が来て、プロジェクトが始まりました。最初は、テレビ局がバックアップしてくれるはずだったのですがうまくいかず、自分でやるしかなくなります(テレビ局が軽い安易な番組の別企画を出したら中国側がヘソを曲げた)。自己資金は2億円。映画そのものは国内で120館で上映され、ヒットしますが、それ以上に経費がかさみ28億円の赤字、金利まで入れると35億円を個人で背負うことになります(例:中国の軍隊がヘリを使っての空撮、高価な35ミリフィルムを山のように使用、など)。

 監督と主演はさださん自身が担当。脚本、演出、撮影は日本映画界のプロに依頼し、撮影終了後の編集は、巨匠市川 崑監督が行なってくれることで話しがつきました。ちなみにスタッフ表には「製作総指揮」として、父・雅人氏の名前が掲載されています。さださんは後年「名前が載っているだけで何もしていない」と冗談めかしていますが、実は映画『長江』は、祖父・繁治氏はもちろんのこと、父・雅人氏にも捧げるための映画でもあったのです。父・雅人氏の映画『長江』への想い、応えようとした息子・まさし。先にも述べました通り、莫大な借金を抱えることが分かりながらも、途中で断念せず、映画をカタチにしたのは、さださんがお父さんの想いに応えようとしたからになりません。父・雅人さんは第二次大戦中、陸軍兵として中国戦線に身を投じていました。そして実は、対戦相手の中国兵に追われる中で、手榴弾の破片により左手親指と左耳の鼓膜に一生の大怪我を負った経験があるとのこと。その因縁の地こそが、まさに長江の沿岸部であり、さださんも最初の撮影でその地を開始場所として選んだと語っています。思うように進まない撮影と、膨らみ続ける借入金、実際の撮影はかなり過酷なものだったそうです。中国側から撮影許可こそ得ていたものの、その現場には常に公安関係者が張り付き、半ば監視されていた状態でした。そんな中で事前の調査なども行えないまま、現地にて情報収集を行なって、ロケハンして撮影という非効率的なやり方を余儀なくされたそうです。それこそ監督・主演であるさださんは、一日3時間眠れればよい方だったとのこと。もちろんさださんの会社には、こうした進行を管理してくれる人材やノウハウもなく、スケジュールは大幅に遅れていき、その度に借入金も増え続ける一方でした。もうひとつ、当初はVTRでの撮影を予定していたそうですが、映像劣化を防ぐ目的から、35ミリフィルムに変更したことも予算を大きく圧迫しました。 「最初の一滴」に辿りつけないままに、四川省で撮影継続を断念、結果的には、予算面でも当時の時代背景の面でも、当初の目的であった長江の最初の一滴を撮影することは叶わず、それでも祖父の縁の地、四川省までの撮影をもって継続を断念。その時点で30億円の費用がかかっており、自前で用意していた2億円を差し引き、28億円の借金が課せられることとなったのです。

 なぜ中国で映画を撮ったかというと、ある意味で佐田家のルーツだったからです。さださんの祖父は中国大陸からシベリアを股にかけて諜報活動で活躍したスパイ(軍事探偵)、祖母はウラジオストックで一番大きな「松鶴楼」という料亭を経営するなど、中国大陸がさださんのルーツでもあり、小さい頃からの憧れだったからです。その松鶴楼に官憲に追われて逃げ込んできたのが祖父の佐田繁治さんでした。「滔滔と流れ続ける長江はまた、故郷長崎まで一直線に伸びたシルクロードと感じていた」と言います。さださんは、1980年の長者番付の歌手部門4位にランクインします。レコードのヒットで稼いだ手持ちの2億円を元手に、映画を撮り始めますが、終わってみたら30億近くかかってしまったというわけです。名目上の製作総指揮であった父・雅人氏は、中国より国賓扱いでもてなされ、表彰までされたとのことです。さださんは雅人氏の死後に、「親父は最後まで、とうとう一度も侘びも礼も言わなかった」と、これまた冗談めかして語りましたが、それもこの親子ならではの照れ隠しなのでしょう。

 金利を入れて35億円近い借金は、僕の会社ではなく、僕個人の借金ですから返さざるを得ない。でも、会社を維持し、社員に給料を払い、なおかつ税金も払いながらの返済ですので、かなり厳しかった。10日ごとに8千万円、5千万円、1億5千万円という手形を落とさなければならなかったわけですから…。負債額がわかったとき、破産宣言するよう勧めてくれた人もいました。「そうすればチャラになって楽になるから」と言って。このときは一晩考えましたね。その結果、貸した側の身になって考えてみよう、と。お金に関してはプロの銀行が融資してくれたのは「さだまさしなら返せる」と考えたからに違いない。だったら返せるんじゃないか。ここは”プロの勘”に懸けてみようと思ったんです。返済の過程で二度不渡りを出したことがありました。半年に二度不渡りを出すと銀行と取引停止になるんですけど、僕の場合は数年おいてでしたから会社はつぶれなかった。つぶれなかったことで「このままいけば返せるんじゃないか」と。そうすると勇気がわいてきて、それが「返そう!」というモチベーションになるんです。返済が終わったときは、ある種の脱力感に襲われたし、「ああ、これで返済に追われなくてすむ」と思いましたね。

 借金を返済する過程で感じたり、学んだことはいっぱいあります。ひとつは”人の情け”です。銀行の担当者をはじめおおぜいの人達が僕を助けてくれた。そういう意味では、僕はついていたし、本当に人に恵まれているな、と思ったことが何度もありました。それと、何事も最後の最後までわからない。だから、諦めてはいけないということも学びました。だから、僕は決して投げないですよ。そして何よりも僕のファンであり、コンサートに来てくださる方たちのパワーです。僕が莫大な借金を返済できたのも、前人未到のソロコンサート4千回を達成できたもひとえにファンのみなさんのおかげです。これからは、みなさんに恩返しをしなければいけない。ということは、僕は歌手をやめたくてもやめられないんですよ(笑)。   ―『女性自身』1月21日号

 さださんが恵まれていたのは、取り立てに会社に押し寄せて来る債権者が、照明・音響などの仕事仲間であったことで、「とりあえず、いくら足りないんだ」と逆にお金を持ってきてくれました。「今月はこの金をあっちに回して」と、スタッフと金の算段を話し合っている。さださんが「ごめんね」と謝ると、「お前には金のことはわからないから、向こうに行っとけ」と追い払われた、おかげで自分の仕事に専念できたことです。 借金を返し、スタッフを食わせるためにも懸命に働くしかありません。毎年、年間100本以上のコンサートで全国を回ったのには、こういう背景があったのです。当時、結婚したばかりの(奥様は島根県・浜田市出身)さださんは、1年以上家に給料は入れていません。同居していたお母さんの蓄えで暮らしていました。会社を解散しようかという話もあったそうですが、責任感の強い性格からか、ここで投げ出してしまえばお金を貸してくれた人に悪い、という思いがまず第一にあったし、その才能ゆえにどこかで「何とかなる」と思ってもいたようです。

 1987年、そんな自分の借金返済で大変な中、広島に原爆の落とされた8月6日に、長崎から平和を祈る野外コンサート「夏・長崎から」をスタートさせます。借金返済に追われる胸突き八丁の苦しい頃のことです。「そんなときに何でまた。そんなことをとお思いのことでしょう。…ほんと、何考えてんだか」。実はその前年、広島で平和コンサートが始まり、手弁当で歌いに行ったさださんは、同じ被爆地である長崎で、同じような平和を祈るコンサートがないことが悔しくなったのです。入場料を無料としたのは、家族の誰もが気軽にのぞけるように、というさださんの強い思い入れからでした。舞台設置費用に800万から1千万。アルバイトの人数も考え、スタッフの移動費、宿泊費、ギャラ、それにゲストへの謝礼を考えると、最低3千万円はかかる。3千万円は確実に赤字が出る。でもやらないわけにはいかなかった。「有料にすれば只の商売にしか写らない。俺は故郷に世話になってきた分、どうしても平和を考えるコンサートをやりたい。と、なれば有料は駄目だ。誰でも来られる、それこそ夕涼みがてら家族で俺たちのコンサートを聴きに来るという”家族の構図”がもう平和の象徴になる。料金を取れば子供や老人は留守番になるかもしれない。チャリティにすれば志は曖昧に見えるのが世の常、人々はそこで動く”金額”にだけ気を取られる。純粋に俺が長崎で好きなことをやる、その代わりに、メッセージを伝える。だから無料でなければ駄目なんだ。スポンサーを探し、あちらこちらに頼み込む。俺が自分で頭を下げて歩くから、頼むから無料でやらせてくれ」 これが長崎で20年(1987年~2006年)も続きます(このコンサートをやめた理由については私も詳しく取り上げています⇒コチラです)。この決断に対して、事務所の社長であった弟・佐田繁理さんは頭を抱え込んでしまったとのこと。しかしNHKによる全国放送の申し出や、さださんの心意気に賛同した音楽界の仲間たちの協力、市民ボランティアの協力などもあり、以後20年間に渡って、長崎の夏の風物詩となっていったのです。まったくもって、あっぱれですね。ここら辺がさださんの男気です。借金返済で苦しく辛い時期に、スタッフの面々は、さださんを支え続けます。しかし始めた当初は、冷ややかに見ている人も多く、売名行為だ、とか選挙に出るんじゃないかと批判する人もいました。

 今から10年前、デビュー30周年、コンサート3000回突破記念の時に、この借金のことを振り返って、次のように語っておられました。

 金のことについては後悔はしています。あれが有意義でなかったとは少しも思わないけど、同じ額使うのなら、もっと効果的な、もっと世の中の役に立つ金の使い方もあったな、と。でも、これは結果論。あれは100年後に評価されますから。ま、返済には一生かかるけどね(笑う)。でも、金に対する恐怖心が消えた事件だったよね、僕にとっては。”何とかなる”ではなく、”何とかしなきゃ”って。身体の病気は金では治らないけど、貧乏は金で直るからね、翌日。金さえあれば翌日直っちゃうんだから。簡単なことだと。ただ、稼ぐのは大変だけど…。もし、あの時僕が35億借金していなければ、今その額を持っているかというと、たぶんそれはないと思うし。もしあの時に借金していなければ、その後はバブルで引っかかっているな、とね。一生立ち直れないくらいの傷を負っていただろうってね。あの時、まだ30歳前だったから、頑張って立て直そうと思ってきたし。この年になってみればまぁ冒険野郎だったな、と思うね。年とったときのネタになるね。話のネタに。”お前ら、スケールちいせぇよ”っていえるもん(笑う)。”5千万や1億でガタガタいうんじゃねぇ”って。会社の借金じゃなく、個人の借金だよ。俺、だから逃げ隠れできないんだよね(笑う)。あの時には社員にも迷惑かけたけど、立ち直ってきた今になれば、いい思い出だよ。 ―『週刊女性』

 返済には1にも2にも、音楽という本業での稼ぎを充てるしかなかったのです。そして、さださんには、CD(当時はレコード)の売上もさることながら、コンサートへの集客力の高さという強みがありました。そこで銘打ったのが「神出鬼没コンサート」。東京・大阪・名古屋といった大都市圏に限らず、地方都市や地域などもくまなく回るという作戦です。実際、借金直後の1982年には、年間162回!それ以降も、年間100本以上のソロコンサートを行うようになりました。もちろん、その合間に、曲づくりやレコーディング、テレビ・ラジオ番組の出演、さらには小説家として執筆作業もこなしながらです。いやはや、もう脱帽するしかありませんね。コンサートの集客のために行った、さださんならではの戦略とは?グレープ時代のヒット曲「精霊流し」「無縁坂」をはじめとして、ソロ歌手転向後の「雨やどり」、「関白宣言」、「道化師のソネット」、「防人の詩」、「秋桜」、そして「風に立つライオン」などなど、錚々たる名曲を生で聞くことができるコンサートは、もちろん魅力的なものです。しかし、そこに胡座をかくことなく、より魅力的に、よりリピーターや新規来場者を増やすために、さださんが行ったこと・・・それは「コンサートのバラエティ化」でした。次も来てくれるリピーターは今の半分。だから次も満員にするためには、その人たちにもう一人ずつ連れてきてもらうという「モットー」に基づいて、とにかく観察に徹底してサービスもします。こんなエピソードがあります。とある芸人さんは若手に対して「さださんのコンサートに行って、話術を勉強して来い」と命じたとのこと。また、さださん自身も「コンサートに来たお客さんから、曲はレコードで聞くから、もっとトークを聞かせてくれって言われちゃいました」というある種の自虐ネタを披露しておられます。これこそが、さだまさしのコンサートに来場者が絶えない理由と言っても過言ではないでしょう。3時間の公演のうち、楽曲演奏はもちろんのこと、合間のトークや、本格的な小噺(中学・高校時代には落研で磨いた)、故郷の思い出、ツアー先でのエピソード、寸劇なども取り入れ、持てるものすべてをお客さんに提供して心から楽しんでもらう。ステージ・トークだけを集めたCDや本まで出ているのは日本広しといえどもさださんだけでしょう。会場を満員にするにはどうしたらよいか?」を必死に考える、この姿勢があったからこそ、4000回以上ものコンサートを今まで続けられ、ひいては借金完済を実現できたのでしょう。ソロ歌手という言葉だけでは括りきれない、マルチな才能とはこのことです。58歳、およそ30年をかけての借金完済、そして父・雅人さんの死去  2010年、いよいよ、その日がやってきます。さださんは映画『長江』で背負った合計35億円の借金を58歳にして、完済。実に30年近い年月をかけ、凡人ではとうてい不可能なことをやってのけたのです。そして奇しくも、息子の借金完済を見届けてまもなく、父・雅人さんは天国へと旅立ちました。決して偶然ではない、何かのおぼしめしがあったのだと、つい思ってしまいたくなりますね。父・雅人さんは生前、さださんに対して一度も礼や労い、侘びや謝意といった言葉を発したことはなかったそうです。

「ひたすらライブやって一心不乱になって返しました。借金から逃れる気持ちはなかった。たかだかお金のことだから返せるか返せないかでしょう。今思えば、そこまで頑なに返済にこだわったのは、父の夢の後片付けだったからかもしれませんね。父が生きているうちに全額返済できてよかったです。」(さだ談)

 一方、私たちファンの間では有名だったエピソードが一つあります。父・雅人さんは生前、自身が出向いたコンサート開場では、必ず開演前に入場口に立ち、来場者一人一人に挨拶。また終演後も、同じように、深々と礼をして観客を見送っていました。やがてファンの間では、お父さんに直接会って言葉を交わせることが、楽しみになっていきました。息子に直接言葉で言えない代わりに、自分に出来るささやかな務めとして行なっていたのでしょうね。  

 58歳になり「もう借金の心配をしなくてもいい」となった時には、「ああ、これで歌手をやめることができる」と心底思い、「よし、60歳になったらやめよう!」と心の中で誓った矢先に、東日本大震災が起きます。あまりのショックに呆然とする中、音楽の無力を感じ、しばらくは動けないままでした。気仙沼の階上中学校の卒業式で中学生が「苦境にあっても天を恨まず」と泣きながら叫んだ姿を見て(私も感動しました⇒コチラです)、目を覚まされたと言います。「がっかりしている場合じゃない。とにかく現場に行こう」と東北に向かいます。普段は絶対にさだまさしなど聴いてくれないような人たちまで喜ぶ姿に接して、「そうか、こういうときのために、さだまさしは有名になったんだな」と、まだまだやれることがあることに気づかされます。お客さんと正面から向かい合って、「今日のコンサートが、ラスト・コンサートになっても恥ずかしくないステージをやろう」と言い聞かせながら精進しておられる最近のさださんです。

 さださんは完済後のインタビューにおいて、「借金を返せたのは、ひとえにファンの皆さんのおかげ。また助けてくれる仲間がいたから」と答えています。そして歌手生活49年以上を経てなお、そうした皆さんに恩返しをするためにも、まだまだ引退することはできない」借金返済後も、「お客さんに育ててもらったのだから、お客さんに納得してもらえるまで走り続ける」とも。親子三代にわたるファンも多く、エンターテイメントの世界において、さだまさしというビッグネームは、今後も当分の間、私たちを楽しませ、感動させ続けてくれることでしょう。♥♥♥

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