巨人の亀井善行外野手(かめいよしゆき、39歳)が、今季限りで現役を引退することを発表しました。私の大好きな選手でした。毎年加わる大物ルーキー、FA戦士、助っ人外国人。そんな中にあって、生え抜きの亀井選手は、限られた椅子を彼らと争いながら生き延びてきました。今日のテーマは、私の「亀井愛」の報告です。
守備へのこだわりは強く、「若い選手には、まだ負けていないと思っている。本当にこだわりを持ってやってきたし、後輩に伝えたいことはたくさんある」と語っています。2007年から、彼は同じグラブを15年間使い続けています。憧れのイチローモデルをややコンパクトにしたものを使い始め、以来、毎試合後、必ずひもの細かい部分まで丁寧にオイルを塗って手入れをするのがルーティーンとなりました。乾燥しないように最新の注意を払い、今までに大きな修理歴は無いと言います。数年で新品に替える選手が多い中、15年間も同じグラブを使い続けるというのは異例のことです。亀井選手の中で、グラブは「道具」ではなく「手」という感覚なのでしょう。その亀井選手の守備を、「守備すごい!」とイチローさんに誉めてもらい感激したそうです。
忘れもしない今年3月26日、DeNAとの開幕戦において、7―7の同点の9回先頭で代打で登場すると、クローザーの三嶋から史上初の開幕戦での代打サヨナラ本塁打を放ち、チームを劇的勝利に導きました。選手としての記録はそう輝かしいものではありませんが、節目節目で劇的な活躍を見せ、記憶に残る選手でした。
2005年、亀井は中央大学から巨人軍へ入団。ドラフトの指名順位は4位でした。内外野どちらもこなせる守備力と打撃センスによって、1年目から東京ドームのスポットライトを浴びることとなりましたが、そこでいきなり現実を突きつけられます。「入った時は三拍子そろった選手になりたいと思っていたんですけど、あれは1,2年目の試合ですかね、中日の川上憲伸さんのストレートを芯でとらえた打席があったんです。自分ではそのつもりだったんですけど、球の威力にバットの方が押されてしまった。自分の力のなさを痛感すると同時に、とんでもないところにきてしまったな……と思いました。特にバッティングでは相当な努力をしないとダメだなと」 「外国人選手も、FA選手も、本当に毎年毎年、どんどん入ってくるんです。そこは自分自身、なかなか難しいところで……ここでどうやって生きていこうか、どうやって光っていこうか、いつも考えていました」 「プロ3年目の2007年には、やばいなと思ったことがありましたし、2010年から3年くらいはずっと打てなくて……。怪我もありましたし、自分自身、クビになるんじゃないかと覚悟していました」 ジャイアンツを形成する巨星たちのまわりで、一瞬だけパッと光って消えていく幾多の小さな星たち……そのひとつに亀井も数えられそうになっていました。
そんな時、どういうわけか、いつも自分をバッターボックスへと呼んでくれる指揮官がいました。原 辰徳監督です。「若い僕を、打てない僕を、大事なところで使ってくれたんです。打てなくてもチャンスで代打、調子が悪くてもチャンスで代打、二軍に落ちて戻ってきたらすぐスタメンとか……、それがなければ、本当にもうクビになっていたと思います」この巨大で過酷なサバイバルレースの中、どうやって光ればいいのか?考え続けた亀井が、ついに自分の居場所を見出したのは、フリーエージェントの権利を取得した2014年のオフのことでした。プロになって10年、ようやく、どの球団とも自由に交渉して、グラウンドに立てる可能性の高いチームへと移籍できる権利を手にしたのです。その年のシーズンを戦い終えてから、権利について考え始めると眠れない夜が続きました。球団のフロントと話し合って、複数年契約の提示とともに慰留を受けますが、それでも決心がつきませんでした。「正直、すごく悩みました。他のチームに行って試合に出たいという気持ちが最初は強かったんです。ただ、よく考えると、やっぱり僕はまだ、このチームに何も貢献していないなという思いがあったんです」そこで、「最終的に、監督に正直な気持ちを伝えてみようと思ったんです」赤とんぼの舞うグラウンドで、亀井は背番号88に歩み寄ります。「そうしたら、監督が、お前はチームにとってものすごく必要な選手なんだと言ってくださって……自分自身もその一言で気持ちが固まったんです」時間にして10分ほど、肩を並べて話すうちに、亀井の脳裏にはかつての日々がよみがえっていました。自分はこのまま消えていくのかもしれない……と怖れていたあの頃、原監督は、勝敗を左右する打席に亀井を送り続けました。何度も何度も。「一軍というのは育てる場所ではなく、勝たないといけない場所じゃないですか。それなのに、監督は打てなかった頃の僕を我慢して使ってくれました」
「お前はチームにとって必要な選手だ」―原監督から言葉をもらったその日のうちに、亀井は巨人に残留することを表明しました。「あれからですかね。やっぱり自分は、困った時の亀井って思われた方が生きるんじゃないか、と気づいたんです。もちろんスタメンでずっと出たい願望はありましたけど、黒子に徹することが自分のためになるんじゃないかと」 原監督は、「常に私の中では『困った時の亀ちゃん頼み』というのがあった。ジャイアンツにおいての守り神という存在でした。戦いはまだ残っている。当然戦力として『困った時の亀ちゃん頼み』はまだまだ卒業しない」と語りました。もう一人、大きな影響を与えた人がいます。若くして亡くなった木村拓也選手です。2010年頃から不振で打てない日々が続いていた頃、木村さんに、「野球は9人でやるものじゃない。控えでも輝けるところがある」と教えてもらいました。怪我持ちの自分にはレギュラーは難しい。黒子に徹したいと、その頃から思うようになったと言います。
10月23日東京ドーム最終戦のヤクルト戦試合後には、引退セレモニーがとり行われました。スタンドのファンから「俺は亀井ちゃんからいっぱい勇気もらったよ!!」と温かい言葉(ヤジ)が投げかけられ、たくさんの拍手が背番号「9」に注がれました。以下は最後の挨拶全文です。
≪亀井のスピーチ全文≫
まずはじめに、球団関係者の皆さま、こんな自分にこの場をつくっていただきありがとうございます。ファンの皆さま、最後まで残っていただき、ありがとうございます。
背番号9、今シーズン限りで引退します。
原監督はじめ、コーチの皆さん、チームメート、スタッフの皆さま、長い間、ともに戦えたこと、感謝します。本当にありがとうございます。17年間で、たくさんの経験をさせていただきました。リーグ優勝、日本一、たくさんの経験をさせていただきました。ケガ、不振、地獄も味わいました。すべて経験してきたつもりです。こんなにたくさんの経験ができたのも、チームスタッフの皆さんの支えがあったからです。皆さんがいなければ、ここには立っていないですし、一人では、はい上がってこれなかったです。すべてのチームスタッフの皆さんに感謝します。ありがとうございました。
ジャイアンツファンの皆さま、今シーズンはいいプレーが見せれず、本当に申し訳ありません。心が折れそうになったこと、何度も、何度もありました。その心をつなぎとめてくれたのが、ファンの皆さまの温かい拍手でした。あの歓声が、もう聞けないと思うと、寂しいです。本当にファンの皆さん一人一人に、頭を下げたい気持ちです。本当に温かいご声援、ありがとうございました。
そして両親、妻、子供たち、不安ばかりかけて本当に申し訳なかったです。もうプレーする姿は見せれませんが、ここまで一緒に闘ってくれてありがとう。これからもよろしく。
最後になりますが…(ここで場内から割れんばかりのねぎらいの言葉が飛び交う。「おれは亀ちゃんからいっぱい勇気もらったよ!」「ありがとう!」「やめないで~」ファンからの温かい声に涙が止まらず)
最後になりますが、心技体そろわないと、このプロの世界では通用しない、身に染みて感じました。若い選手たちには、心技体すべてにおいて、強い選手になってほしいと思います。
(吉川)尚輝、ポジティブに頑張れよ。(松原)聖弥あんたは天才だから。もうちょっとだけ頭使っていけよ。きっしゃん(岸田)お疲れ。
勇人、あとは任せた!3,000本目指して頑張ってください。
ファンの皆さま、本当に、本当に温かいご声援、ありがとうございました。(ビデオメッセージを寄せてくれた)内海、ありがとね。
本当に17年間、ありがとうございました。
FA権を使わず巨人に残ったことを、わずかでも後悔したことはないですか?亀井にそう訊くと、しばし自分の心の中を探すように思案します。そして、屈託のなさと強さの同居した表情で言いました。「なかったです。ジャイアンツでなく、他のチームにいっていたら、もう野球人生、終わっていたと思います」 昨年9月に股関節、内転筋を負傷、肉離れを3カ所で発症、まひ症状が出てしまい今でも治っていません。一度に10カ所の注射を打つなど、壮絶な痛みを乗り越えてきましたが、打撃の根幹を担う軸足となる左足の状態が戻りませんでした。怪我と闘い続け、その度に這い上がってきた経験値をもってしても、今回ばかりは打ち勝てないと、「思い通りのスイングの軌道を描けない」ことで自ら判断を下し、引退を決意しました。「体は壊れてもいいので思い切りバットを振りたいと思います」と、残り試合に全てをかける覚悟で臨みます。頑張れ、亀井選手!!♥♥♥
【追記】 11月9日(火)、『スポーツ報知』の亀井引退特別号(400円)が発売されました。私は早速買って隅から隅まで熟読しました。どこにも書いてないない情報満載でしたので、ご紹介しておきます。