世の中には「ついている人」がいます。あの人ラッキーだな、つきまくっているなあ、と思われている人たちです。あの経営コンサルタント・船井幸雄(ふないゆきお)さんのまとめによれば、つく人たちには、共通して持っている特性があると言います。次の10項目です。つくためには心を養わなければいけません。「ついている人」は、人相がよく、明るく、温かいのです。
①プラス発想型人間……何でも良い方に考え、物事に感謝し喜べる人間である。
②すなお肯定人間……何事にも決めつけたり、否定したり、嘲笑したりしない人である。
③勉強好き、挑戦好き、やる気人間……新しい事、道のことに挑戦できる人である。
④謙虚な笑顔人間……誰に対しても威張らず、ニコニコしている人である。
⑤長所伸張型人間……長所に目が行き、ついている人とのつきあいが多い人である。
⑥自助型人間……他人の力をアテにしないが、人からの支援には喜びを感じる人である。
⑦辛抱・執念型人間……苦を苦とせず、目標達成に執念を持って努力できる人である。
⑧着実、バランス安定人間……マクロな判断ができ、実行力に秀でている人である。
⑨強気、負けん気、思いやり人間……成功している人はこのタイプが多い。
⑩秩序維持型自由人……自由人だが、秩序を維持すべきことについては守る人である。
そして幸福を引き寄せるためには、自分に与えられた福は惜しんで、使い果たすことなく取っておき、独り占めしないで他人と分かち合い、次世代のために新たに福を植える。それが結局は、再び我が身に福をもたらすという、幸田露伴が述べた「幸福三説」なる3つの工夫を意識することが大切です。「幸福三説」は、「惜福」「分福」「植福」の三つからなっています。これを若い時に知ったことは、私の生き方の上で、大きな影響を与えました。私は今まで、努めてこれを実践するようにしてきました。
「惜福」(せきふく)とは、文字通り福を惜しむことです。自らに与えられた福を、取り尽くし、使い尽くしてしまわずに、天に預けておく、ということ。その心掛けが、再度運にめぐり合う確率を高くする、と説かれます。露伴は「幸福に遇う人を観ると、多くは「惜福」の工夫のある人であって、然らざる否運の人を観ると、十の八、九までは少しも惜福の工夫のない人である。福を取り尽くしてしまわぬが惜福であり、また使い尽くしてしまわぬが惜福である。惜福の工夫を積んでいる人が、不思議にまた福に遇うものであり、惜福の工夫に欠けて居る人が不思議に福に遇わぬものであることは、面白い世間の現象である」と述べています。例えば、宝くじで1億円が当たったら〔笑〕、全部使ってしまわずに、2千万円くらいは貯金に回しておこう、つまり福を大事にする精神のことですね。よそ行きのいい洋服を作ってもらったら、それまで着ていたまだ十分着れる服をさっさと捨てて、いい洋服を普段着のように着回すのではなく、ちゃんとよそ行き用にだけ着て、古い普段着はさらにブラシをかけて着る。控えめにして、自ら抑制する、いい福が来たら、それを惜しむような態度でいると、福が集まるということです。
「分福」(ぶんぷく)とは、幸福を人に分け与えること。いい事があったら一人占めにせず、他の人にも福をお裾分けをすることです。自分一人の幸福はありえない、周囲を幸福にすることが、自らの幸福につながる、と説かれます。「恩送り」「情けは人のためならず」と近い考え方ですね。露伴は「すべて人世の事は時計の振子のようなもので、右へ動かした丈は左へ動き、 左へ動いた丈は右に動くもの、自分から福を分ち与えれば人もまた自分に福を分ち与えるものだ」と述べています。露伴によれば、恵まれた福を分かつことは、春風の和らぎ、春の日の暖かみのようなものであると言います。春風はものを長ずる力であり、暖かさでは夏の風にはかなわないが、冬を和らげ、みんなを懐かしい気持ちに誘うことができる。それと同じように、福を分かつ心を抱いていると、その心を受けた者はやすらかな感情を抱くものです。分福をあえてなす者は周囲に和やかな気を与えることができるのです。どこからお土産をたくさんもらったら、それをお裾分けする。ただし、あくまでも好意で分けるのですから、「見返り」を期待してはいけません。福は天からの授かり物であって、自分に何かいいことが起こったら、それを天の一角に返す気持ちで他人に分ける、そういう気持ちが大切です。するとめぐりめぐって、いつの日か再び自分に回ってくるということです。上司に褒められた場合も、「ありがとうございます。これも、同僚や先輩の皆さんがお力を貸してくださったおかげです」と一言添えるのも一種の「分福」と言えるでしょう。商売で儲けたときに、社長が、利益を従業員に分けてあげると、儲かると自分たちにもいいことがあるんだと分かり、熱心に業務に励もうと努力する、と露伴は例を挙げています。「分福」をせずに商売で得た利益を独り占めして、社長が自分の懐を潤すだけなら、儲けようが損をしようが、自分たちには関係ないと考えて、熱心に働く気も失せ、やがてはその店はもうけのチャンスを逃すことになるだろう、と言っています。私は今まで、努めて「Give and Give」の生き方を心がけてきました。
「植福」(しょくふく)とは、後世の人々の幸せのために「福の種」を植えることであり、3つの福の中でこれが最も大切だと露伴は言います。将来にわたって幸せであり続けるように、今から幸福の種を蒔いておくこと、精進(正しい努力)し続けることが重要です。過去に自らが蒔いた種が芽を出し、今の自分を創っている。過去を書き替えることはできないが、今から良い種を蒔き続ければ、望ましい未来につなげることが出来る、と説かれます。例えば、60歳になるおじいさんが、自分の土地に植林を始めたとしましょう。小さな苗木を1本1本と何日もかかって植えていきます。この木が成長して材木などに利用できるようになるまでには、何十年とかかります。その頃にはもうこのおじいさんは生きてはいません。あれだけ丹精を込めて育てた苗の恩恵を自分は全く受けないかもしれません。でも自分が恩恵をこうむらなくても、子孫や村、ひいてはお国のためには、福となって返ってくるのです。自分に返らないことがわかっていながら、なおかつ福を植えるという気構え、これが「植福」です。1人の「植福」が、どれだけ社会全体を幸福にするか計り知れません。「植福」において、個人と社会の福がつながってくるのです。「植福とは、自分の力・情・智をもって、人の世に幸福をもたらす物質・清趣・知識を提供することを言うのである。すなわち、人の世の慶福を増進長育するところの行為を植福と言う」と、露伴は説いています。
「蓄財の神様」と言われた本多静六博士は、これらをリンゴの樹に喩えて、三つの福に分かりやすい説明を加えています。リンゴの樹を所有していて、その果実を全て成熟させずに、うまくまびいてその樹の安全・安定を図るのが「惜福」。また、果実のリンゴをみんなにお裾分けするのが「分福」であり、新たにリンゴの樹を植えるのが「植福」です。「ついてきたぞ」と喜んでいる段階でとどまらずに、そのつきを「惜福」、「分福」、「植福」の三つの扱いをして、さらなる「つき」の増殖をしたいものですね。
福とは天に向かって矢を放った状態だといえます。矢は必ず落ちてきます。つまり、そのままにしておいては福はなくなります。福をなくさないためにも、さらには福を増やすためにも、「惜福」「分福」「植福」の3つの工夫があるのです。「惜福」「分福」「植福」を地道に積み重ねることこそ大切なことだと感じています。私は若い時に、故・渡部昇一先生の薦めで、幸田露伴の本を読んで、ずいぶん生き方の参考にさせてもらっています。
最後にもう一つ。成功するには、運と根気と、鈍いほどの粘り強さ、この3つが必要だということで「運・根・鈍」と言われます。尊敬する渡部昇一先生は、86歳の時に、ラストメッセージとして生き方を総括されて、運の良い人間になるには、「鈍・根・運」の順番で事を為すようにすると良いとアドバイスされました(『日本人の道徳心』(ベスト新書、2017年))。何事も続けていくには粘り強さを示す「鈍」が必要です。しかし「鈍」に即って粘り強くやっていたとしても、そうそういいことは簡単に起こるものではありません。周りから「あいつはバカじゃないか」と言われるくらい「根」をつめてやっていると、そのうちに少しずついいことが起こるようになり、やがて「運」がめぐってくるというのです。だから最初のうちは、結果に期待して「いいこと」をするのではなくて、ただ純粋に自分を高めるため、よくするために「いいこと」を続けるようにするとよいのです。愚鈍に物事を続けていれば、根性がある人だと言われるようになり、その後「あの人、運がいいな」と言われるようになるのです。「運・根・鈍」ではなく、「鈍・根・運」でいきましょう。♥♥♥