渡部昇一先生のエピソード(13)~ダチョウと鷲

 教えている浪人生から、intelligenceintellectはどう違うのですか?と質問を受けました。以下は私の解答です。

 大学生の頃、人間の知力には二種類あるのではないか、と尊敬する故・渡部昇一先生(上智大学名誉教授)が書いておられるのを読んで(渡部昇一『クオリティライフの発想 ダチョウ型人間からワシ型人間へ』(講談社、1977年))、「なるほど!」と感心しました。ハマトン『知的生活』(Intellectual Lifeが出典でした。それがインテレクト(intellect)インテリジェンス(intelligence)の区別です。インテリジェンスというのは知識を獲得する能力ですが、インテレクトの方はそうではありません。それは例えば、ダチョウと鷲」みたいな違いがあるというのです。

 1つは、たくましく地面を蹴ってダダダダとひたすら走っていく、ダチョウみたいな知力と、もう1つは、翼を一つも動かさずにサーっと空中を飛ぶの知力を、例としてあげています。ダチョウは、前方に何があるかまで考えず、は、遠くまで全体を俯瞰しています。その先を読むと、そのダチョウのような感じの知力を「インテリジェンス」と呼び、のような知力を「インテレクト」と述べているのです。地に足がついたような知力と、空を突っ切って飛ぶような知力があるのではないか、とハマトンは言うのです。英和辞典によると、インテリジェンス(inteligence )は、知能・理知・理解力、頭の良さ・頭の働き・知恵・英知、インテレクト(intellect)は、知性・知力・英知・理知、論理的あるいは客観的思考力と表現されている。渡部先生は、インテリジェンスは測ることのできるIQテストのような頭の良さで、一方インテレクトは、修道院で瞑想して得る悟りのようなもので、測れない頭の働きであると思ったとのことでした(知能の研究家によると、知能因子は120くらいあって、そのうち測れるものが40数個、測れないものが70数個あるとのこと)。

 分かりやすいのはインテリジェンスのほうです。あの子は頭が良い、といったような場合の頭の良さを示しています。例えば教えられたことをよく覚える。算数などもきっちりできる。言いつけられたことを忘れないで守るといったようなことを指します。知能指数というのもこれに相当するでしょう。そこから抜けるような、知能検査の問題が作りがたいような種類のことに頭を使うことをインテレクトと言うのです。このインテリジェンスインテレクトの違いを、『知的生活』の著者であるイギリスのハマトンは、ダチョウの足とワシの羽に喩えています。どちらも鳥の移動能力に関わるのですが、ダチョウの足の感じがするのがインテリジェンス、ワシの羽のような感じがするのがインテレクトだというのです。ダチョウや鶏というのは、飛べないけれど地面を歩くのはうまい。このように地面を踏みしめて地道に生きるのがインテリジェンスだというのです。これに対して、やツバメは、地面などは歩けないけれども、スーッと空を突っ切って飛ぶことができます。このような能力がインテレクトだとハマトンは言っているのです。

 日常的な実務をテキパキと処理する有用さは社会を維持していくのに非常に重要なものです。そういう有能な実務家がいなくてはこの世の中も動かないのですから、そういう能力を持った人が重視されるのは当然のことでしょう。その場合の知の対象になるのは、日常的なこと、地に足がついているという感じの意味の知力です。学校の秀才もこれに相当するでしょう。そこでこれはダチョウの足に喩えられるわけです。一方、インテレクトの方は、峰から峰へ一気に空をかけるような感じのするのものなのです。文学にしろ哲学にしろ、あるいは数学にしろ、空をつかむようなところから始まったわけだし、分野によっては最後まで空をつかむようなところがあります。日常的な生活に即した知とは別のものであり、確かにいい意味で空をかけるような感じ、より高い知であるという印象です。これはワシの羽に喩えてもよいかと思われます。世の中にはあらかじめ解答が用意されていない問題もたくさんあります。例えば、この絵が美しいかどうか、一つの事象から何を連想するか、といったことは、確かに知能ではあるけれども、その時点では誰も正解を知りません。5年なり10年経ってみてはじめてどれが正解だったか分かってきます。そういった問題が直感的に分かるのがインテレクトなのです。学校秀才的・実務型のインテリジェンス「ダチョウの足」とするならば、独創的・創造的生活を可能にするインテレクトは、悠々と飛翔する「ワシの羽」に喩えることができるでしょう。

 渡部先生の書かれた「学問のある人の知力」(ダチョウの知力)「学問と関係のない知力」(ワシの知力)の考え方を最も強く支持されたのが、故・松下幸之助さんでした。以来、松下さんは渡部先生の著作を全て読まれ、ご自分の伝記の執筆を渡部先生に依頼されたのでした(渡部昇一『松下幸之助全研究 日本不倒翁の発想』(学研、1983年))。

 松下幸之助さんがインテレクトとしての知力を持っていた人だと考えるとよく分かります。松下さんの伝記ほど、知識と知恵の違いをよく教えてくれるものはありません。松下さんは小学校までしか学校教育は受けていません。自転車屋に勤めて自転車の販売をやっていた松下さん。ちょうど大阪の町を電車が走り始めた頃でした。松下さんはこの電車を見て不思議な感じにとらわれたのです。電車は電気で走ると言うけれど、電気と言えば電灯ではないか。電灯でどうして電車が走るのかと疑問に思いました。周囲の人に聞いても誰も説明できません。ここでビビッときたのが松下さんです。電気の仕事に就こうと決心します。松下さんは体があまり丈夫でなかったので、先頭に立って働くことができず、なるべく下の人に任せるようにしました。大所高所から考えて、有能な人を抜擢して、次から次へと仕事を渡していったのです。このことは、インテレクトの方向へ松下さんが若い時から傾いていた、ということを示すものでしょう。もちろん小さい工場で電気ソケットを作るといったような発明は、どちらかと言えばインテリジェンスなのでしょうけれど、いわゆる器用さや、日常の処理だけに頼り切らない、もう一つ高い次元のことを考えておられてのです。歳を取れば取るほど、考えることのスケールが大きくなっていきました。晩年の政治家を育成する「松下政経塾」の創設などは、その最たる例と言うことができますね。

 渡部先生によれば、会議にも二種類必要だ、とのことです(『指導力の研究』(PHP研究所、1981年))。一つは、各部門の担当者が「ダチョウの足」的に集めた資料に基づいて、手堅い議論を行う「インテリジェンス的会議」で、これは定期的に、しかもきわめて事務的に進めるべきもの。もう一つは、資料を一切持たず、情報が遮断された状況の中でお茶でも飲みながら、場合によってはお酒を飲みながらいろいろと話し合う「インテレクト的会議」が、少なくともトップのリーダーには必要です。必ず発言しなければならないとか、何とか結論を出すとかいうような制約は一切設けずに、ブレーンストーミング的に自由に話し合う。名案が出なければそのまま解散しても構わないし、定期的に会議を開く必要もない。これといったテーマが決まっていなくても、「ワシの羽」的な能力を持っている人間なら、とりとめのない話の中からでも、重要な情報を得ることはできるのです。若い頃にこの二つの「知力」の話を読んで、ずいぶん影響を受けたのを覚えています。♥♥

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