原田泰治さんご逝去

    私の大好きだった画家の原田泰治(はらだたいじ)先生が、悪性リンパ腫のため3月2日にご逝去されました。81歳でした。今年1月に自宅で車椅子から落ちて、諏訪中央病院でリハビリを続けておられましたが、2月14日に容体が急変していたそうです。先生は、日本のふるさとの四季の情景を豊かに描き続けました。素朴なタッチで描かれた日本の原風景。 「まるで自分のふるさと」、そう感じる人は少なくありません。

 原田泰治先生は、諏訪市で生まれ幼少期は飯田市で過ごしました。 幼いころ小児まひで両脚が不自由になり、車いす生活を送っていました。東京銀座のデザイン事務所で働きますが、通勤ラッシュは心まで消耗させました。帰郷したものの、入ってくる注文は、商店の包装紙やマッチ箱の図案くらいでした。「都会に負けたという敗北感でいっぱいでした」と振り返ります。少年時代に見た風景を絵に描き、それがきっかけとなり絵本や画集が刊行されるようになります。自らのふるさとに対する思いも強く、1998年に長野県諏訪市に作品を集めた「諏訪市原田泰治美術館」がオープン。2004年には「御柱祭」を描いた作品展を開きました。昭和57年から「朝日新聞」日曜版で、昔ながらの四季折々の風景を求め、47都道府県を描く連載「原田泰治の世界」が始まりました(2年半継続)。その後、欧州や米国、南米にも取材旅行に出かけ、精力的に活動を展開しました。近年では、絵画や絵本、デザインの創作を続ける一方、2019年には作家で諏訪中央病院院長の鎌田實先生らと、「らくらく入店の会」を創立。車椅子で入店できる店を全国的に増やそうと活動をしていました。

 私の自宅の壁には、何枚か原田泰治先生の絵が飾られています。画集もたくさん買

▲原田先生が名誉館長の「ナガサキピースミュージアム」

いました。独特のほのぼのとしたタッチの絵が、心を和ませます。先生の絵に出てくる人物の顔には、目も鼻も口も描かれていません。絵をご覧になった皆さん一人一人の心で、表情を入れてもらいたいからです。そんな原田先生の絵が大好きで、若い頃からずいぶん追いかけています。長崎の「ピースミュージアム」の名誉館長も務めておられます。長野県諏訪市には「原田泰治美術館」があります。⇒サイトはコチラです  一度訪ねてみたいと思っていましたが、未だに実現していません。若い頃に、米子でお会いした時には、画集に大きく力強い字で「夢」とサインしてもらいましたが、これは今でも私の宝物となっています(写真下)。

▲原田泰治先生と 八幡も若いね

 原田先生は生まれて間もない一歳のとき、ポリオ(小児麻痺)を患い、その後遺症で両足が不自由になりました。当時「この子は五歳くらいまでしか生きられないだろう」と医者から宣告されてもいます。二歳で母を病気で亡くします。そして五歳になったとき、原田先生一家は、長野の伊賀村に開拓農民として入植しています。開拓農民に与えられる土地は、村の中でも一番条件の悪い場所です。水路も無い荒れ地を、父が一生懸命耕していきました。歩くことができない原田先生は、いつも高台にある柿の木の下に敷かれたムシロの上に座らされていました。そこから父の働く姿を毎日眺めていたのです。そこからの眺めは最高だった、と原田先生は回想しておられます。村全体が一望出来る上に、左手には飯田線を眺めながら、四季の移り変わりを感じていたと言います。そんな高台のある畑から、全体を俯瞰する「鳥の目」をもらったのでした。父のそばにいたくて、一生懸命這いながら必死になって父を追いかけます。そうするうちに、杖を使って自分の足で立てるようになったのです。医師の言葉をみごとに覆し、小学生になります。時には、友達が虫取りに誘ってくれました。しかし、原田先生は山の上まで一緒に登ることはできません。友達が山に入っている間、一人きりで待っていなければなりませんでした。何もすることがないので、草むらに頬をつけるようにして寝転がります。すると草むらがまるでジャングルのように見えてきます。花の蜜を吸っている小さな虫までもが、巨大な生物みたいに見えてきた、と語っておられます。こうして「虫の目」をもらったのでした。このようにして、幼い頃にもらった「鳥の目」「虫の目」が、原田先生が描く作品の原点だとおっしゃいます。足が不自由だったおかげで、人とは違う「目」を持つことが出来たのです。「人はみな、何かに限定されながら生きています。すべてのものが自由に手に入るわけではありません。でも、何かに縛られたり、限定されるからこそ、そこにアイデアが湧いてくる。ないものねだりをするのではなく、自分に与えられたもののなかで一生懸命に生きていく。人生とはそういうものだと僕は思っています。」(『PHP』8月号インタビュー 2013年)

 絵を描くことは小さい頃から大好きだった原田先生ですが、小・中学校と、先生は認めてくれませんでした。空から描き始めて、下の方に民家を描くと、先生は「空ばかりで楽をしている」といった調子です。褒めてくれたのはお父さんだけだったそうです。お父さんは勉強ができなくても全く怒りませんでした。自分でやりたいことを見つけるまでじっと待っていてくれたそうです(ここら辺は教師として参考になりますね)。諏訪の定時制高校に通っていた頃、クラスで校内弁論大会の弁士にある女子生徒を選んだところ、その子は人前では緊張してしまうと泣き出します。原田先生「僕にマラソン大会に出ろと言うのと一緒だ。考え直そう」と意見を述べ訴えると、先生が「いい意見だ。原田が弁士になれ」と言いました(こういう先生好きですね)。それで校内1位、県1位となり、人生で初めて大きな自信をもらった、と言います。三年生の時には、愛鳥週間の全国ポスターコンクールに応募して佳作に、続いて山火事防止ポスターでは全国2位になります。これが2つ目の自信となり、美術学校に行きたいと思うようになります。武蔵野美術短大を卒業して、東京で働きますが、足が悪くてラッシュの電車に乗れません。故郷の諏訪に帰ってきます。以来、グラフィックデザインの仕事をしながら、10年間を過ごした伊賀村での小さい頃の想い出や体験を描くようになりました。1973年に東京・銀座で展覧会を開きますが、あまり評判はよろしくなかったようです。落ち込んだ原田先生に、お父さんは「自分がいいと思ったら、100枚でも200枚でも描いてみろ。マンネリというトンネルを通り過ぎたら、必ず個性という光が輝いてくる。お前はこれでいけ」と励まします。この言葉が、原田先生の画家としての原点となりました。

 小学校のときも中学校でも、学校は原田先生を修学旅行に連れて行けないと言いました。お父さんは何度も学校に足を運んで、「こんな身体だからこそ、社会勉強として連れて行って欲しい」と頼み込みました。口癖のように「自分の力で生きなくてはダメだ」と言っていました。親はいつかいなくなる、その時には自分の力で生きていかなければならない、何とかしてその力と知恵を持たせておきたい、と心から願っていたお父さんの愛でした。そして、そんなお父さんを一番信じていたのが原田先生でした。

★英語教師の私としては、英文を読んだり、聞いたりするときにも、この原田先生のおっしゃる「鳥の目」「虫の目」は重要です。英文全体を見渡しておおざっぱに概要を把握する「鳥の目」と、細かな部分をじっくりと観察する「虫の目」の両方が必要なんです。私の授業ではこの二つの力を目標に、鍛えているところです。このことについては、最近「虫の目、鳥の目、魚の目、コウモリの目」と題して詳しく書きました。⇒コチラです

▲私の大好きな絵「ジャカランダの丘」

 さだまさしさんが吉田政美さんと、「グレープ」解散15年目の1991年に「レーズン」という名前で再結成して作ったアルバムの中にある「ジャカランダの丘」という歌を想い出します。この歌は、泰治さんが同名の絵を描き、その絵と同じタイトルの歌を作るとさださんが約束して作ったものです。実は泰治さんとさださんは、無二の親友だったのです。原田先生さださんの手描きの地図を頼りに発見した「ジャカランダの丘」は、ハワイマウイ島ハレアカラ山の中腹にあります。泰治さんと二人でこの丘に立ち、美しく咲き乱れる「ジャカランダ」の花を呆然と見つめながら、さださんは同題の歌を作ると約束したのでした。吉田さんとの素敵なハモリこの曲、聴いてみて下さい。♥♥♥

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