「ドトールコーヒー」の鳥羽社長

 私は米子に通勤する日は、必ず1時間ほど早く行き、松江駅「ドトールコーヒー」で一仕事してから、電車に乗ります。都会に出た時も、「ドトール」のお店を見つけると、すぐに入ってしまいます。「スタバ」ではなく「ドトール」ファンなんです。創業主のファンなんですね。私が初めてドトール」のコーヒーを飲んだのは、東京・銀座の文具店・伊東屋の裏にあったお店でした(今はもうありませんが)。

 「ドトール」は、鳥羽博道(とばひろみち)名誉会長が、1962年に24歳の春に起こした会社です。昭和12年10月11日、埼玉県北部の花園村(現在の深谷市)で、5人姉弟の長男に生まれました。9歳の時に母が病没しました。高校を中退して東京に出てきたのが、16歳のときです。父親との仲違いが原因でした。東京に向かう列車の中で思い描いたのは、「友だちはみんな、ぬくぬくと高校、大学を卒業するのだろう。彼らが社会に出てきたとき、自分は絶対に負けたくない!」という決意。友人に対する妬みでもありましたが、負けず嫌いであったことが、自分の成長をうながす原動力になったことは間違いありません。上京して喫茶店で働くようになりました。鳥羽さんの真面目な働きぶりに感心していたコーヒー豆の焙煎卸業の社長から、「うちへ来ないか」と声をかけられました。本当は気が進まないまま入社したのが、コーヒーとの出会いでした。18歳の時で、セールスを担当しました。それから1年後、社長から「有楽町フードセンターに直営店をだすことになった。君は喫茶店勤務の経験があるから店長をやれ」と命ぜられたのです。「必ず成功させるぞ!」と決心して、そのとき「喫茶店が世に存在する意義は何か?」と懸命に考えました。その結果、「一杯のコーヒーを通じて安らぎと活力を提供することこそ喫茶店の使命だ」という答えを得たといいます。確信を得れば自身が湧く。当時、まだ喫茶業は軽んじられていて、『喫茶店でもやるか』と『でも』がつく仕事でしたが、鳥羽さんには喫茶店で働く明確な方向性が見えていました。すなわち『喫茶店だからこそ、やりたい』と思ったのです。「でも」ではなく「使命感」でやる。「やすらぎと活力を提供するには、どうしたらいいのか」を自分で考え、そして、みずから形にしようとしました。設計の知識などありませんから、図面であらわすことができません。チョークを使って道路に線を引いて通路の位置を考えたり(笑)、色彩心理学の本を買って勉強をしたり、映画『ベンケーシー』からヒントを経て、清潔感のある制服を考えたり……。ふつうは設計者に任せるのでしょうが、私の場合は、当時から自分で設計していました。自分の使命を果たすのに、人の手を借りようとは思わなかったですね」店作りからすべてを自分の手で行い、それまで以上に積極的、かつ意欲的になり、商売の面白さを知り、喫茶店は大成功を収め、充実感とともにさらに自信を深めたといいます。しかしその一方で、自分がこのまま小さな喫茶店の店長で終わってしまうのではないか、という将来への不安と焦燥感にさいなまれ始めました。昭和33年、20歳の時、将来への不安を克服しようと、単身ブラジルに渡り、コーヒー園で働き、コーヒー豆の栽培や収穫工程などを学びました。3年後に帰国して、再びコーヒー卸会社で働いていましたが、ある時、得意先を競合他社に取られた社員を、往復ビンタで殴る社長の姿を見た瞬間、辞表を提出しました。厳しい中にも、和気あいあいとした「理想の会社」を作ろう、と思ったからです。独立を決心。昭和37年に有限会社ドトールコーヒーを立ち上げ、コーヒー豆の焙煎加工卸業を始めました。創業者の鳥羽さんが、十代の頃下宿していたサンパウロの「ドトール・ピント・フェイラス通り85番地」への思い入れから採られた名前です。「ドトール」というのはポルトガル語で「医者」の意味で、ブラジルの医療に貢献したピント先生の功績を讃えてつけられた地名だそうですよ。資本金わずか50万円、従業員2名、間口たった二間の事務所兼焙煎所兼倉庫で、焙煎機1台と中古の軽四輪車からのスタートでした。お金も後ろ盾もない。コーヒーの品質も高くない。あるのは夢と情熱だけでした。

 鳥羽さんは語ります。「どうして自分で会社を興したのか。それは、『厳しさの中にも和気あいあい働くことのできる会社』を作りたかったからです。お互いが真剣に仕事をする中で、『おまえ、大したもんだな』『いや、おまえこそ大したもんだ』と認め合える。お互いが讃え合う。お互いが尊重し合う。それが『和気あいあい』ということです。私の好きな徳川家康が天下統一を成し得たのは、家康が『殺戮のない平和な世の中』を願ったからだと思います。織田信長の『天下布武』も武田信玄の『風林火山』も、戦いのノウハウです。けれど家康にあったのは、戦いをなくすことであり、『世のため、人のため』という使命感であり、その使命感が正しかったから、天下を治めたのです」1971年、各国のコーヒー業界を視察するツアー(ヨーロッパ)に参加した際、「日本にも、パリやドイツのように、“立ち飲みコーヒー”の時代が来る」ことを予見。それから約10年後の1980年、日本初のセルフサービスコーヒーショップ「ドトールコーヒーショップ」がオープン(原宿)します。第2次オイルショックによる「景気の低迷」と「可処分所得の減少」を余儀なくされたビジネスマンにとって、150円コーヒーは大きな波紋を呼びました。「『ビジネスマンを助けなくっちゃいけない。経済的な負担もなく、おいしいコーヒーを毎日飲めるようにしたい』。そう思ったんです。『手助けをしたい』という気持ちが先立っていたので、お金儲けには執着していませんでした。でも儲けに走らず、『人の役に立ちたい』というポリシーを持っていたからこそ、ドトールコーヒーは発展したのだと思います。『国民を幸せにする社会をつくりたい』。それが私にとっての幸せです。人の喜びは、我が喜びです。経営にとって、もっとも大切なことは、はじめにみんなを喜ばせ、あとから自分が喜ぶことではないでしょうか」 いい言葉です。

 彼の理想は、19歳の時の誠実な思い「一杯のコーヒーを通じて安らぎと活力を提供することこそが喫茶業の使命」でした。「願いが正しければ、時至れば必ず成就する」という徳川家康の言葉、「金の貧乏をしても心の貧乏するな」という、お父さんの言葉を座右の銘としながら、どれだけ苦労されたのかは、彼の『想うことが思うようになる努力』(プレジデント社)と、その改訂文庫版『ドトールコーヒー「勝つか死ぬか」の創業記』(日経ビジネス文庫)に詳しく出ています。やはり松下幸之助(まつしたこうのすけ)さんの影響がここにも見られました。私も尊敬する松下幸之助さんの本をむさぼり読んでいますが、生き方・考え方で参考になるところが多いです。八幡家の家電製品は全部パナソニック製です(昨年あまりの対応の悪さに、パナソニックから東芝に65インチのテレビを乗り換えましたが…)。

 そんな鳥羽さんの「経営の3つのヒント」が次のものです。 

①共生社会を目指し、税金は積極的に収める

これからの日本は、高潔な精神を持って「世界から尊敬される国」にならなければいけません。そのためには、デンマークやスウェーデンのような「共生社会」をつくっていく必要があります。税金がなんらかの形で「社会福祉」に貢献するのであれば、私は喜んで納税しますね。

②「次の時代」を常に意識する

事業には寿命があります。寿命が来た時点で次を考えていては、間に合いません。「次の時代はどのような時代になるのか」を踏まえた行動を取るべきです。私がヨーロッパの「立ち飲みコーヒー」に触発されたのも、常に「日本の喫茶業界の将来像」に頭を巡らせていたからです。

③歴史小説は、良質な経営書でもある

『三国志』や司馬遼太郎の『坂の上の雲』、坂本龍馬や徳川家康を題材とする歴史小説は、良質な経営書でもあります。『坂の上の雲』から学んだのは、勝負への執着心。「勝つための条件が揃っているなら、なにがなんでも実行する」という強い気持ちを学びました。

 今日も、私は松江駅「ドトールコーヒー」で、仕事に励んでいます。♥♥♥

 フランチャイズの経営者たちが『努力してるのに商売がうまくいかない』って言うんですけど、その時に僕は『努力にも段位がある』という話をするんです。『あなたはいま自分の精いっぱいの努力をしてると思うかもしれないけど、僕から見たらまだ五段だ。少なくとも八段まで行かないと名人とは言わないように、八段の努力をしないと商売はうまくいきませんよ』って。
 ただ、八段の努力をしてるだけではダメで、人間性が大事なんでしょうね。一所懸命やればこうなるっていう期待や打算があってはいけない。無心でなきゃいけない。それが人生を展開していく大きな鍵になるんだと思います。 (鳥羽博道)

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