「象は忘れない」

 学生時代に英語力をつけるためには、英米の推理小説」を読むのがいいよ(もう一つ薦められたのがポルノ小説」!)、と薦められて、イギリスの推理小説作家・アガサ・クリスティ(Agatha Christie)の作品を片っ端から読んでいた記憶があります。当時洋書のペーパーバック1冊がちょうど300円くらいしていて、お昼ご飯(当時学食のカツカレーが280円だった)を1回抜くと1冊買えるのでした。熱狂的なファンとなってはまった私は、クリスティの作品は全部買い求めましたが、裏表紙には日付が記入してあって、「あー、この日にお昼ご飯を抜いてこの本を買ったんだなあ~」と、今では思い出に浸ることができます。当時は大学前にあった本屋さん(園山書店)に、洋書もたくさん置いてあったんです。クリスティのペーパーバックも全作品が揃っていました。こうやって貧乏学生だった私は、一冊一冊買い揃えていったのでした。他の人に買われてしまっては困るので、仲のいい女店員さんに頼んで、書棚の奥に隠したこともありましたっけ〔笑〕。今ではその本屋さんも潰れてしまいました。今は都会の大きな書店でも、洋書を置かないお店が増えていますね。そもそも学生が本を読まなくなっています。

 さて、そのクリスティの作品の一冊に、Elephants Can Remember (1972)という、名探偵・エルキュール・ポアロ最後の作品がありました。象が記憶力がいい」ということは、私は恥ずかしながらこの作品で初めて知ったんです。 推理作家・オリヴァ夫人が子供の頃教わった話をポワロにします。 象が仕立て屋に鼻を針で刺されます。 何年もして忘れてしまった頃に、仕立て屋は象に鼻から水をぶっかけられます。 象はひどいことをされたことを忘れてはいなかったのです。 記憶力が良く、自身が受けた仕打ちを決して忘れることはなく、必ず復讐する、ということです。オリヴァ夫人は事件を調査するのに、自分の入れ歯の話題から象に結び付けていきます。 ここら辺の話の持っていきかたは、さすがストーリー・テラーのアガサ・クリスティです。 自分の老いと過去の記憶を、自然に「象」の話へと導きます。

 ポアロの盟友である推理作家ミセス・オリヴァには、かつて自身が名づけ親となったシリアという娘がいました。シリアは近々デズモンドという好青年と結婚する予定です。ところがある日、オリヴァは、デズモンドの母親からぶしつけな依頼を受けます。それは十二年前に発生したシリアの両親の心中事件についてのこと。この事件では父親が先に母親を銃で撃ったのか、あるいはその逆だったのか(?)。この謎をシリアに確かめて欲しいというものでした。オリヴァから相談を受けたポアロは、彼女とともに当時の関係者を訪れて、過去の暗闇の中から真相を探ろうとします。「象は忘れない」。この不思議な言葉は、作中でミセス・オリヴァとポアロが交わした会話のなかに出てきます。ミセス・オリヴァいわく、「象」は意地悪された人間も優しくしてくれた人間のことも、決して忘れることはない、と。その言葉を知っていたポアロは、今回の謎解きにあたってミセス・オリヴァと二人で「どこかにいる象」を訪ねることにしたのです。記憶力の良い証人たちを「象」に例えたわけです。その「象」は過去の全てを覚えているはず。この時から二人の過去への探索の旅が始まりました。彼らが訪ねたのは、当時の二人をよく知る近所の人たちやシリアの家庭教師たち。また事件を担当した警察官や医師などでした。ある者は二人にはそれぞれ秘かな恋人がいたらしい、と言います。またある者は彼らほど仲の良い夫婦はいなかった、とも言います。そのほか母親は死の病を患っていた。二人のどちらかに妹か姉がいて、精神病で入院していた、等々の話が集まります。とは言え残念ながら、一人として完璧な「象」はいなかったのです。ところが物語の中盤、突如過去の霧のなかから衝撃的にその姿を現した人物がいました。その人物の登場により、今までくすぶっていた漠然とした不安や恐怖がたちどころに顕在化し、物語は一挙に緊張感が高まります。ここからが名探偵ポアロの出番。やがて彼の鋭い洞察力、人間観察力によって事件の全貌が明かされます。こうしてポアロによって完成されたジグソーパズルの「絵」は、当初の「絵」とは真逆のものでした。確かにこの強烈なドンデン返しに読者は驚倒、中にはだましの快感をも感じる方もおられるかも知れません。

 この作品で、象が並外れた記憶力を持っていると知った私は、その後、新聞や小説を読む中で注意していると、このことに何度も何度もぶつかることになります。以下はその例の幾つかです。私はその後、『ライトハウス英和辞典』(研究社)の中に、Elephants never forget.《ことわざ》象は物事を忘れない(象は記憶力がよい)という用例を含めておきました。恩師・安藤貞雄先生『三省堂英語イディオム・句動詞大辞典』(三省堂)では、Elephants never forget.《諺》ゾウは決して忘れない/an elephant’s memory ゾウの記憶力《抜群の記憶力,執念深さ》が載っています。こういった英単語にまつわる文化的背景の大切さは、学生時代に山田政美先生(島根大学名誉教授・島根県立大学名誉教授)からこんこんと教えていただきました。興味のある方は、山田先生の数々の著作をお読み下さい。♥♥♥

(1)   “Dear Lord, help me to do my work well; to have the memory of an elephant, and by some to be able to do five things at once―answer four telephones while typing a letter that ‘must go out today.’  ―”Ann Landers,” Dec.5, 1978.

(2)   “Heavenly Father : Give me the patience of Job, the memory of an elephant, and the hide of a rhinoceros. ―”Ann Landers,” Nov.8, 1979.

(3)   “You didn’t forget, did you, Angelo?” she asked. I raised my glass to her. “Angelos, like elephants, never forget.” ―H.Robins, Betsy.

(4)   “Reliable witness?” Carella asked. “Sharp as a tack. Memory like an elephant.” ―Ed McBain, Lightning.

(5)   I’ve already forgotten it, believe me, and I have a memory like an elephant. ―E. Hunter, The Blackboard Jungle.

(6)   William Small, in his own words, and through his own voluntary admission, had “the memory of an elephant.”  ―Ibid.

(7)  Please, Ann, fill me in on this. It’s been years since I read that letter and I’ve been wondering about it ever since. Can you give me an update?

     Elephant, indeed! That letter appeared at least 15 years ago and I remember it well. ―”Ann Landers,” Jul.9, 1982.

(8)   “I’m not looking for any nurses,” he said. “No?” Greg’s eyes narrowed. “I remember you, mate. Maybe you was too busy to notice me the last time you was here, but I remember you. I remember you goddamn well. I got a memory like an elephant.” ―Ed McBain, Death of a Nurse

(9)   “By the way, did you learn anything else from Mrs. Norris when you showed her Zach Caulder’s diary?”  George rolled her eyes. “Miss Elephant’s Memory here suddenly couldn’t remember where she left the diary, so we couldn’t show it to anyone.” ―C. Keene, The Clue in the Old Album.

(10)   Now, you may say that Lamp got picked up for pushing ‘way back in the sixties, and he done his time and paid the penalty, but that’s not good enough for me. I got a memory like an elephant. ―Ed McBain, Hail to the Chief.

 そんなことを思い出していた時に、偶然、柳 広司『象は忘れない』(文春文庫)を書店で見つけました。ついタイトルにつられて買って読んでみました。3.11東日本大震災時の原発事故によって今までの生活が一転してしまい、今なお苦しんでいる人たちの胸のうちを描く短編集です。立場はそれぞれ違うけれども、誰もが原発後にもがき苦しんでいる様子を、当事者の視点を様々に変えた状況で淡々と描いていきます。今でも一部では忘れ去られている現実を、今後も絶対に忘れないように、風化させないように、という作者の強いメッセージが、間違いなくタイトルには込められていますね。♥♥♥

カテゴリー: 日々の日記 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中