人参方の門

 「灯台もと暗し」、もう長く松江に住んでいますが、「エーッ、松江にこんなところがあったんだ!」という新発見に出くわすことが少なくありません。松江市・寺町誓願寺の南に残っている「人参方の門」(にんじんかたのもん)もそんな新発見の一つです。ここでいう人参とは、朝鮮人参のことで、文政8年(1825)に古志原村にあった人参方役所を天神川沿いにある寺町に移して 製造所と土蔵を新築し、生産と販売を行いました。このころ、藩内の人参畑8千カ所、製造高は2万斤。人夫は346人。人参方の利益で幕末には、軍艦2隻を購入(17万ドル)したそうです。ちなみに、松江藩には「鉄方」「木の実方」もありました。鉄方は、現在のカラコロ工房付近、木の実方は、日本赤十字病院横の米子町入り口付近にあったそうです。木の実方の木の実は、おもにハゼのことで、蝋や蝋燭などがつくられました。

 路地の上に和風の屋根。道の両側にある民家に挟まれ、瓦葺きの屋根だけがまるで宙に浮いているようです。これが「人参方の門」です。近くには由来を説明する看板までありました(写真上)。

 一見、長屋門のように見えますが、路地に架かっているのは屋根のみ。遠くからだと商店街のアーケードのようにも見えましたが、そうではないようです。民家と民家の間にかかる橋のように屋根だけがくっついている奇妙な姿。

 車寄せか?雨除けか?家の中を道路が貫通している?件の屋根を反対側から見ても、やっぱり屋根。謎が深まります。

 この辺りに1825(文政八)年、薬用人参の生産と販売を行う目的で「人参方」という役所が設けられました。この謎の屋根は、その人参方の門の名残だということです。藩が本格的に人参の栽培を始めたのは、7代藩主の松平治郷(はるさだ)の頃です。当時の藩士が幕府直轄の栽培地で技術を学び、それまで失敗続きだった状況が一変します。後に中国にも輸出され、莫大な収益を上げました。明治に入ると、実業家の松本観次郎らが県から事業を引継ぎ、製造を継続しました。しかし、時代の推移とともに旧役所の敷地には民家が次々と建ち、門だけが残りました。以前あった門扉や門柱も撤去されてしまいました。両サイドの家も民家ではなく、当時は役所に繋がる長屋だったようです。人参方の奉行とその家族や家臣が、職住一体の場として暮らしていたのでしょう。城下町の名残りを感じさせる珍しい景色として、松江市が管理しています。♥♥♥

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