岸田総理と「折り鶴」

 核攻撃の可能性を示唆しているロシアがウクライナ侵攻を続ける中、世界の核軍縮などについて議論する「核拡散防止条約(NPT)再検討会議」が開幕しました。岸田総理は英語で見事な演説をしました。理想と現実を結び付けるロードマップとして『ヒロシマ・アクション・プラン』を示し、核保有国に核戦力の透明化を求めていくほか、世界の若者を広島、長崎に招くため1,000万ドルを拠出し新たな基金を創設すると発表しました。また “核兵器不使用の継続” を訴え、「長崎を最後の被爆地にしなければならない」と述べました。

 私は初めて岸田さんの英語を聞きましたが、なかなか上手いじゃないか!英語の発音も抑揚も見事でした。通訳の人と特訓をしたと報じられていましたが、堂々としたプレゼンでした。「私は1羽の折り鶴を折って、ここに持って参りました」 日本の総理として初めてこの会議に出席した岸田総理は、「赤い折り鶴」を手に演説し、ロシアが核の威嚇を行う今こそ「NPT体制の強化が重要だ」と訴えました。岸田総理は、演説の結びで、広島で被爆し、病床で鶴を折り続けて亡くなった佐々木禎子(ささきさだこ)さんを紹介しました。

 禎子さんは、2歳の時に爆心地から1.6㎞の距離で被爆。その後10年間元気に暮らしていましたが、12歳の時に突然白血病を発症しました。入院から亡くなるまでの8カ月あまりの間に1,500羽の鶴を折りました。借金のある親を気遣い、紙は薬の包装紙でした。当時高価だった痛み止めなども我慢していました。家族が自分の心配をしないよう、自分が不治の病であることを「知らないふり」までしていました。禎子さんは鶴を折ることに集中することで、痛みや不安を紛らわせていたのかもしれません。禎子さんのそうした人を思いやる心が、平和の基本なのだと遺族は今も訴えています。「広島平和公園」の中にある「原爆の子の像」は、この佐々木禎子さんをモデルにしたモニュメントで、1958年同級生の募金運動によって「子供の日」に建立されたものです。

 2016年5月27日、広島に4羽の「折り鶴」が舞い降りたことを覚えていらっしゃますか?ピンクと青の2色。千代紙をつかい、丁寧に折られていました。この4羽の折り鶴は、アメリカのオバマ大統領が、自ら折ったものです。オバマ大統領「広島平和記念資料館(原爆資料館)」を訪門した際、そのうちの2羽を出迎えた小・中学生2人に手渡し、残りの2羽は、直筆のメッセージに添えてそっと置いたといいます。「私たちは戦争の苦しみを経験しました。共に、平和を広め核兵器のない世界を追求する勇気を持ちましょう」と。

 オバマ大統領は、なぜ折り鶴を贈ったのでしょうか?アメリカで折り鶴は浸透しているのでしょうか?そのヒントは「SADAKO」というキーワードにありました。アメリカの学校における平和教育の場で使われている教科書のタイトルです。オバマ大統領「広島平和記念公園」を後にする時に立ち寄った、「原爆の子の像」、そのモデル・佐々木禎子さんが、まさに「SADAKO」という教材になっていたのです。この像には、いつでも何千、何万もの折り鶴が手向けられています。この像の真下にある石碑には、「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」と刻まれています。この折り紙の購入先を聞いてもっと驚きました。なんと折り紙は100円均一の店で売っている商品だったのです(禎子さんは薬の包み紙で鶴を折ったことを思い出してください)。1セット24枚入りで、お値段は当然100円。つまりオバマ大統領の折り鶴は1羽4円ほどだったことになります。アメリカの大統領として口には出せないけれど、いろいろな意味が鶴に込められていたことが分かります。当然謝罪の気持ちも、です。私は「原爆資料館」に展示されているこの2羽の折り鶴を見に行ってきました。

 岸田総理が会議場で示した「赤い折り鶴」は、こうした背景の元で、登場したものだったのです。今日は77回目の「原爆の日」です。平和の祈りを捧げたいと思います。♥♥♥

 

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