渡部昇一先生のエピソード(16)~夫婦円満

 故・渡部昇一先生は、冠婚葬祭には、原則としてごく親しい家の場合のみに出ることに決めておられました。というのは、自分の子どもの結婚式などがあると、呼ばれた時は行かないのに、自分の時だけは来てもらいたい、では収まらないからです。学生の場合は、出席していたらきりがないので、仲人を頼まれた時だけは出る、ということを原則としてこられました。十何組もやられましたが、幸いに壊れたカップルは一組もなく、子どもが生まれなかった夫婦もありませんでした。

 その教え子の披露宴の席で、渡部先生は、自分の結婚式の時に恩師の先生が言ってくれた言葉を贈られます。すなわち、「うちの夫婦の真似をしろ、俺もわがまま、女房もわがまま、それでもいまだにもっているのはなぜか?」というスピーチをされます。そして続けて、「私の結婚式の時に国文学の先生が言ってくれた、一番いいスピーチを君たちにも伝えよう。結婚する以上、ご両人とも単に好きだと言うだけではなく、相当に相手のことを調べるでしょう。ご両親から大切に育てられ、友達からは信頼されているご両人が、悪い人間であるわけがありません。ところが、結婚すると、けっこう喧嘩になるものです。その時、相手の人格を批判してはいけません。というのは、結婚する前に立派な人間だとお互いに確認し合ったわけでしょう。どちらも良い子と良い娘だったのです。ですから喧嘩になった理由は、自分でもない、相手でもない、ちょうど2人の真ん中へんが悪いのだと思いなさい。つまり中(仲)が悪いのです。だからその中をよくしなさい。仲よくしなさい。私は女房としょっちゅう喧嘩しているけれど、女房の人格までは立ち入らないし、向こうも立ち入ってこない。だからしょっちゅう喧嘩するのは中が悪い、仲を調停しなさい。」と、一席ぶたれるのでした。

 「相手の人格に立ち入ることはしない。中を取り持て」という教えです。実に参考になりますね。客観的に言えば、結婚前、相手にもちゃんと友達や家族がいて、その人たちに好かれて、人気もあって一人前にちゃんとやっていた。もちろん自分もそうであった。それなのにそんな二人がいがみ合っているとする。お互いにそう悪い人間であるはずがないのに、うまくいかないのはどうしてか?それは“中(=仲)”が悪いのだ。これはいいえて妙なたとえです。“なか”が悪いのである、そこを調整すればいい、相手を責めないで中を考えろという訳ですね。

 このことは、職場などでもあてはまる教訓かもしれません。嫌いな人間がいても、その人はその人なりに仕事はきちんとできて、彼なりの友人もいる、それで自分とそりが合わないのは、相手が悪いわけでも自分が悪いのでもない、“なか”が悪いのだ、と悟れば、調整のしようがあろうというものです。

 よく「性格の不一致」で離婚などいうことがあります。しかし性格が一致するなどということは実際にはあり得ないのでは、と渡部先生はおっしゃいます。ましてや結婚したばかりの時は、みんな性格は不一致です。渡部先生の場合も、奥様とは性格が非常に違っておられます。しかし何十年も安定して生活してこられたのは、お互いに別れないという点に関して、強い意志を持っているからだと言われます。この根底のところで意思が一致さえしていれば、「性格の不一致」ということ自体が、逆にいいバランスをとってくれるものです。もし完全に夫婦の性格が一致しているということであったら、夫の欠点はそのまま妻の欠点ということになって、夫婦がそれぞれの足りない部分を補って、助け合っていくという美点がなくなってしまうことでしょう。

 思想信条や知的レベルや支払い能力に差があり過ぎると、老いての友情は維持し難いというのが渡部先生のお考えでした。「夫婦もそう。うちは家内と毎日夕食だけ一緒にとる、定年後奥さんとギクシャクする人は会い過ぎなんです〔笑〕。お互い寝る時間も別々ですし、僕は年を取っても朝起きるのがツライくらいの生活がいいと思う。毎日晩酌を楽しむも結構、ただそれでは満足できない人間もいて、ふと気づくと午前3時4時まで本を読み耽っている夜更かし老人も、悪くないものです〔笑〕。」♥♥♥

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