靖国神社

 東京・市ヶ谷の老舗洋菓子店「ゴンドラ」にお邪魔した際に(⇒私のグルメレポートはコチラ)、女主人さんから「道路を挟んでお店の真ん前が靖国神社ですから、ぜひ散策してみてください」と勧められました。時間もあったので、立ち寄ってみました。「靖国神社」は、明治2年(1869)に明治天皇の思し召しにより創建された「東京招魂社(しょうこんしゃ)」が始まりで、幕末の志士から大東亜戦争までの戦歿者が祀られています。

 こちらは、明治34年(1901)に建てられた拝殿です。境内には、気象庁が指定した東京の桜の標本木があり、桜の名所としても知られていますね。

 毎年8月15日の終戦記念日になると、首相や閣僚の靖国神社参拝問題が大きくクロースアップされますね。そのたびに、中国、韓国などが厳しい批判や反発を繰り返し、関係が冷却化しています。A級戦犯を合祀したことで、昭和天皇が親拝を停止した経緯があるのです。故・安倍晋三首相は、2013年12月26日に靖国神社を参拝しましたが、その影響で日中、日韓両国関係は、急速に悪化しました。国内外に波紋を投げかける「靖国神社」を取り巻く宗教的、歴史的、そして政治的な意味合いなどについて考えてみましょう。

 「靖国神社」(正式名称は靖國神社)は、江戸時代の幕末、長州藩(山口県)で1863年 に結成された奇兵隊士の霊を弔うために、高杉晋作(1839~1867年)が「招魂社」造営を発議したことに始まります。その後、1868年の戊辰(ぼしん)戦争後に、官軍(薩摩、長州、土佐、肥前4藩)将校の招魂祭を、江戸城(現在の皇居)で行うとともに、京都東山(現京都市東山区)では官軍の戦死者を祀(まつ)りました。これを機に、幕末、明治維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが全国的に活発になり、日本陸軍の創始者である大村益次郎(1824~1869年)が、明治天皇に東京に招魂社を創建することを献策しました。明治天皇は翌1869年、現在の東京・北九段に「東京招魂社」を創建し、戊辰戦争の戦没者3,588柱を合祀(ごうし)します。ただし、本殿が竣工したのは3年後でした。その後1879年に、軍直轄だった「東京招魂社」は、「靖国神社」に改名しました。

 当初は、天皇の側に立って戦った官軍の戦死者を顕彰するのが目的でした。しかし、よく知られているように、1877年の「西南戦争」で明治政府に反抗して戦死した西郷隆盛や、1874年に「佐賀の乱」を起こした江藤新平は“賊軍”であるとして、合祀されていません。もちろん、会津藩(福島県)の白虎隊も、明治政府に逆らった賊軍であり、最後は切腹をしたため「靖国神社」には祀られていません。その一方で、戊辰戦争以前の「安政の大獄」(1859年)で江戸幕府によって処刑された吉田松陰、橋本左内らはm“新政府側”ということで合祀されています。戦死ではなく結核で病死した高杉晋作も合祀されています。こうした対応に、今でも不満を持つ人がいるのが現実です。

 「靖国神社」は“鎮魂”を目的としていましたが、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦を経て、“慰霊”から“顕彰”へと変化していきました。特に、第2次世界大戦中、日本兵が戦友との別れの際に、「靖国での再会」を誓ったことから、靖国神社は日本兵の「心のより所」となり、軍国主義化の中で第2次世界大戦の戦死者は「英霊」として祀られました。しかし、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、終戦直後の1945年12月15日に「神道指令」を出し、信教の自由の確立や軍国主義の排除するため、国家神道を廃止します。さらに、「靖国神社」は翌1946年に制定された宗教法人法に基づいて、同年9月に宗教法人となりました。

 「靖国神社」に祀られる「神」は、戦死、戦傷病死をした軍人、軍属とそれに準じる人々であり、新たな戦死者が出るたびに「祭神」に加える合祀の手続きが取られることになっています。「靖国神社」の資料によると、合祀者の総数は246万人強となっています。ここら辺の事情は、渡部昇一『渡部昇一は、靖国を語る 日本が日本であるためのカギ』(PHP出版、2014年)を参考にしたいと思います。

 「遊就館」は、近代史の真実を学ぶパネルや英霊の遺書・遺品、当時の兵器などを展示している博物館です。今回は時間の余裕がなく見学することはできませんでした(写真下)。

 またここには、ラダ・ビノード・パール博士の顕彰碑が建立されています。今回の訪問で、これだけは見ておきたいと思っていました。日本が裁かれた「極東国際軍事裁判」(東京裁判)の裁判官総勢11名のうち、国際法のエキスパートは、このパール判事ただ一人でした。彼は、東京を焼け野原にした連合国が、焼け野原にされた日本を裁く資格があるのか?加害者が被害者を裁く構図になっているのではないか?と考えます。詳細に事実関係を調べたパール判事は、「侵略したのはむしろ連合国の方であり、日本は侵略国家とは言えない」と、日本無罪論をただ一人述べました。しかし、このパール判事の判決書は、「復讐法廷」であった東京裁判の判決には全く反映されることはありませんでした。法廷で朗読することすら許されなかったし、国内で公刊することも禁じられました。「勝者による儀式化された復讐」として、唯一、被告全員無罪の意見書を出したインド代表パール判事を顕彰するため、平成17年6月25日にここに建立されました。なお、平成9年にインド独立50周年を記念して、京都霊山護国神社にも同様の顕彰碑が建立されています。♥♥♥


(刻字)碑正面:
「時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとった暁には その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら過去の賞罰の多くにそのところを帰ることを要求するであろう」
「頌
ラダ・ピノード・パール博士は昭和二十一(1946)年五月東京に開設された『極東国際軍事裁判所』法廷のインド代表判事として着任され、昭和二十三年十一月結審・判決に至るまで、他事一切を顧みる事なく専心この裁判に関する膨大な史料の調査と分析に没頭されました。博士はこの裁判を担当した連合国十一箇国の裁判官の中で唯一人の国際法専門の判事であると同時に、法の正義を守らんとの熱烈な使命感と、高度の文明史的見識の持主でありました。 博士はこの通称「東京裁判」が、勝利に傲る連合国の、今や無力となった敗戦国日本に対する野蛮な復讐の儀式に過ぎない事を看破し、事実誤認に満ちた連合国の訴追には法的根拠が全く欠けている事を論証し、被告団に対し全員無罪と判決する浩瀚な意見書を公にされたのであります。 その意見書の結語にある如く、大多数連合国の復讐熱と史的偏見が漸く収まりつつある現在、博士の裁定は今や文明世界の国際法学会に於ける定説と認められたのです。 私共は茲に法の正義と歴史の道理とを守り抜いたパール博士の勇気と情熱を顕彰し、その言葉を日本国民に向けられた貴重な遺訓として銘記するためにこの碑を建立し、博士の偉業を千古に伝えんとするものであります。
平成十七年六月二十五日 靖国神社宮司 南部利昭」

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