長町武家屋敷街

 香林坊から歩いてすぐ、金沢の繁華街の近くとは思えないほど静かな長町界隈。加賀藩士・中級武士たちの屋敷跡が残り、趣のある黄土色の土塀、石畳の小路などが当時の面影を偲ばせます。当時金沢は、江戸、大阪に次ぐ3番目の大都市だったと言われています。今も市民生活が営まれ、周辺には九谷焼のお店や飲食店も並びます。「長町武家屋敷跡」は、昔ながらの街並みの中に現代の生活が自然に溶け込み、独特の風情が漂う魅力的なエリアです。冬期間は、土塀を雪の浸透から守るため、わらのむしろを土塀に掛ける「薦掛け(こもがけ)」が行われます。雪から土塀を守る「こもがけ」は、「雪吊り」とともに、金沢の冬を彩る風物詩となっています。長町を流れる大野庄用水は、古くから人々の生活を支え、今も町に趣を添えています。バスガイドさんの案内で、30分ほど散策してみました。

 「大野庄用水」と呼ばれる水路が、武家屋敷を囲うように張り巡らされています。これは前田利家が金沢城改築普請に際して、本流の犀川から引き込んだ当時のものがそのまま残っているそうです。ちなみに金沢城下には全長150Kmを超える用水路が55本も張り巡らされているそうですよ。そのなかでも最も古い歴史をもつ「大野庄用水」沿いに点在しているのが、この長町です。用水路に面するすべての建物は渡り橋を持ち、独特の雰囲気があります。

 ご存知の通り、金沢は非戦災都市です。意図的か、それともたまたまか、幸いにも米軍がこの地に爆弾を落とすことはありませんでした。そのため福井や富山と違って、江戸期の町割りがそのままの形で残っているのです。当然、武家屋敷が居並ぶこの長町も、丸々ごっそりと保全され、今、こうして目の当たりにすることができるのです。そんな強運に守られてきた「長町武家屋敷」跡。元々のルーツはどんな所だったかと言うと、上・中級武士の住まいが集中する場所でした。実際歩いてみると分かりますが、確かに一軒一軒、そこそこの敷地面積があります。まあ現代で言えば部長さんクラスの人が集まっていた所、みたいなイメージですかね?ひと口に武士と言っても、そこにはランクがあり。藩主の下に直属する加賀八家と呼ばれる最上級クラスを筆頭に、その下に「人持組(ひともちぐみ)」「平士(へいし)」「与力(よりき)」「御歩(おかち)」「足軽(あしがる)」と続きました。この長町界隈には、主に平士クラスの武士が住んでいたそうで、それはつまり、それなりに経済力のあった人達がいた、ということになります。高級住宅街と言うと、少し言い過ぎかもしれませんが、まあそんな感じの所だったのかもしれません。

 屋敷の大きな特徴としては、敷地をぐるりと取り囲む土塀。この土塀からは、実はそこに住む人の「格」を読み取ることができ、平士クラスだと1.5~2メートル程度。それが八家や人持クラスになると、2.5~3メートルもの高さがあった、とガイドさんから説明を受けました。ざっと見た感じ、そこまで高い塀はないので、このあたりは平士レベルの人たちが住んでいたことが分かります。さらに門構えや屋敷のしつらえ、石垣にまで身分に応じた「決まり」がありました。まー面倒くさい世の中だったんだなと思いますが、それが「江戸」という時代だったのです。そんな決まり事をひとつひとつ吟味しながら歩くと、この町の景色もまた違って見えてきます。江戸期の藩政時代の風情を今に伝える稀有な場所、「長町武家屋敷」跡。そこに漂う空気感とともに、かつての武家文化を味わってきました。♥♥♥

【追記】 この武家屋敷街をぐるっと歩いていると、あのアパホテル」の社長さんのご自宅(元谷さん)がありました(あまり帰ってこられることはない、とガイドさんから聞きました)。「アパホテル」は私も大好きなホテルで会員になっています。その夜は、金沢駅前「アパホテル」に宿泊しました。全国にどんどん新展開を薦めている「アパホテル」です。

▲アパホテル社長元谷さんの自宅

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