「徽軫灯籠」

 金沢「兼六園」のシンボルとしてよく知られ、観光写真にも度々登場する2本脚の「徽軫灯籠」(ことじとうろう)霞ケ池の北岸に配された「兼六園」を代表する景観ですね。この灯籠は、水面を照らすための雪見灯籠が変化したものです。形が楽器の琴の糸を支え、音を調整する琴柱(ことじ)に似ているため、その名が付いたと言われています。二股の脚は元々は同じ長さでしたが、何かの原因で折れてしまい、石の上に片脚を乗せてバランスを保っています。手前に架かる「虹橋」と、傍らのモミジの古木との三位一体となった風景はとても絵になり、多くの観光客がここで記念撮影を行っています。兼六園にたくさんある灯篭のうち、二本足の灯篭は「徽軫灯籠」だけです。灯籠の足の一本は短くなっていて、石に乗っかっています。「徽軫灯籠」の高さは、約2.67メートルで、「徽軫灯籠」の2脚の足は、長さが違っています。1脚は高さ約1.9メートルで、霞ヶ池の水中にあり、もう1脚は高さ約0.8メートルで、平らな石の上に置かれています。折れた足の先は、足元に残されています。かたわらのモミジの古木、曲水に架かる「虹橋」と一体となって優れた風景を醸し出しています。脚の長さが異なるアシンメトリーな美しさが見どころで、手前にある「虹橋」に立ち、「霞ケ池」「徽軫灯籠」をバックに記念撮影をするのがお約束です。私も撮ってきましたよ。「兼六園」を象徴する一枚になりますね。

 足の長さが違う「徽軫灯籠」の美しさは、不均衡の美などと言われていますが、最初から一本短く造られて設置されたのではないのです。「徽軫灯籠」は、粟ヶ崎(あわがさき:金沢市粟ヶ崎町)の豪商、島崎氏が、十三代藩主、前田斉泰(なりやす)に献上したものです。岡山県産の石で作られていて、その時の「徽軫灯籠」の足は2本とも同じ長さでした。いつから足が一本短くなったのか、なぜ短くなったのかは、不明なのです。少なくとも明治初期までは同じ長さだったようです。台風で倒れて折れた灯篭を、誰かが起こして石に乗せたとか、誰かが寄りかかって倒し、折れてしまったとか、諸説あります。

 昭和40年頃、「徽軫灯籠」は何者かに壊されています。火袋(ほぶくろ:火を灯す場所)が粉々に砕け、無残な姿に。当時の管理事務所は壊れた灯篭を捨て、新しいものに取り替えることに決めたものの、先祖代々の兼六園のお抱え庭師、植村氏が頑として反対し「この(壊れた)ことじ灯籠でなければならん」と、壊れた灯篭を京都の職人の元に運び、修復してもらったといいます。京都の職人さんは、粉々になった火袋を張り合わせて直したそうですが、継ぎ目やズレなどはまったく見えないほどの素晴らしさです。園内の橋や植物は2代目がけっこう多いのですが、石は風雪に晒されて削れ、植物には寿命があります。江戸時代の殿様が見ていたものと同じままの初代は、どんどん少なくなっていくのは、哀しいかな自然の理です。庭師の植村氏は、「徽軫灯籠」兼六園のシンボル的な存在なので、2代目ではなく当時のままの、本物の「徽軫灯籠」として少しでも長く残したかったのでしょう。

 この「徽軫灯籠」の脚の長さが違っている謎に関しては、「兼六園」の元所長が詳しく探求しておられます。加藤 力『兼六園のシンボル「ことじ灯籠」の片脚はなぜ短くなったのか?』(北國新聞出版部、2020年)です。面白い。♥♥♥

 

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