田中菊雄

 昭和の初めに、『岩波英和辞典』(岩波書店)を編纂、英語学者として名を成した田中菊雄(たなかきくお)という先生がいました。この辞典は、世界最大の英語辞典Oxford English Dictionaru(OED)を凝縮したユニークな逸品で、学生時代にはずいぶんお世話になったものでした。この先生の生涯がすごいんです。

 明治23年北海道小樽市生まれで、父の事業の失敗が元で、貧窮に耐えて暮らしました。旭川の高等小学校に通学しますが、途中で中退。国鉄の旭川駅所属の客車給仕係をしながら、文学青年だった車掌から小説を借りては乱読していたといいます。18歳の時に、小学校の代用教員となり、翌年、検定試験に合格し正教員となりました。24歳で上京し、鉄道員官房文書課に勤めながら、夜間英語専門学校の正則英語学校に通学しました。米国人に英語を教えてもらうために、勤務のあと毎週、どんな吹雪の夜でも1日も休まず、往復16キロの道を5年間通い続けました。疲れはてて、路肩で眠ったこともあったといいます。大正11年に中学校教員検定試験に合格、4年間中学校で教鞭をとる一方で、英文学の研究にいそしみ、大正14年高等学校教員検定試験に合格し、研究社の『新英和大辞典』の編纂に関わりました。昭和5年に山形高等学校に転勤し、この頃に7年かけて『岩波英和辞典』を編纂しました。戦後は新制の山形大学の教授を務めています。昭和50年、82歳でその生涯を閉じています。

 田中菊雄先生の英語学習法は、「睡眠時間節約のために、一切室に火をおかず、床をとらず、端然として机に向って、いよいよ眠くなってたまらなくなると、そのまま外套をかぶってゴロリと畳の上にねる」「やや眠りが浅くなってだんだんと寒くなって目をさますと、すぐまた机に向うという極端な手段」といったような、鬼気迫る壮絶なものでした。

 私の尊敬する故・渡部昇一先生は、同郷の立志伝中のこの人を深く尊敬し、「少年時代、田中菊雄先生は私の心の中の英雄であった」と語られていましたね。田中菊雄『私の人生探求』(1962年、三笠書房)を、渡部先生が解説を加えて、再刊して『知的人生に贈る』(1983年、三笠書房)、後に『知的人生に贈る どう生きるかを考える書』(1984年、知的生き方文庫)『あなたはこの「自助努力を怠っていないか!』(1991年、三笠書房)として改題されました。その中にこんな話がありました。

 私は小学校を出ると(いやまだ出ないうちに)すぐ鉄道の列車給仕になった。辞令を受けて帰って、神棚に捧げた時の気持ちは、いまでも忘れられない。そしてその辞令をいまでも大切に保存している。「ほかの少年は親から充分費用を出してもらって学校へ通える。しかし、私はあすから働いて父母の生活の重荷の一端をになわしてもらえるのだ。私の働いて得たお金で父母を助け、また私の修養のための本も買えるのだ。私は本当の学校、社会という大学校へ、こんなに幼くて入学を許されたのだ。ありがたい。本当によい給仕として働こう」。こう思うと熱い涙がほおを伝わって流れたのである。

 これはまだ13、4歳の少年が初めて仕事に就いた時、心に誓った決意です。少年期より、人生に誓うものを持つことによって、自らを修養し、人生を構築する真摯な姿に、渡部先生は尊敬の念をお持ちだったのでした。

 この田中菊雄先生の詳しい一生については、秋保慎一先生「山形の生んだ英学者田中菊雄先生」コチラで読むことができます。♥♥♥

 一生の間にある連続した五年、本当に脇目もふらずに、さながら憑かれて人のごとく一つの研究課題に自分のすべてを集中し、全精力を一点に究める人があったら、その人は何者かになるだろう。(田中菊雄)

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