藤波辰巳のドラゴンスープレックス

 私は若い頃から熱狂的なプロレスファンで、ジャイアント馬場さんや、特に藤波辰巳(ふじなみたつみ)選手の信奉者でした。自分の世界でしか勝負をしない長州 力はあまり好きになれず、誰とでもオールラウンドな戦いのできる藤波選手に限りない魅力を感じていたのでした。彼がスターに一気に駆け上がることになった当時を振り返ってみたいと思います。

 大分県・東国東郡で陸上競技に明け暮れて、中学卒業後、地元大分県の自動車整備工場に就職した藤波辰己(ふじなみたつみ)は、プロレスラーアントニオ猪木にあこがれ、同郷というだけでたまたま湯治に滞在していた、見ず知らずの北沢幹之をたよって入門を直談判します。すると巡藤波業に帯同させてもらえるという幸運を得て、日本プロレスに押しかけ入門をします。1970年のことでした。格闘技のバックボーンなど何一つないあどけない少年です。北沢にくっついて動く藤波を見て、アントニオ猪木「あの坊やは何だい?」と聞いたと言います。身長177㎝、体重68㌔の少年がプロレスラー志願だとは誰も思いませんでした。1年の練習生活を経て藤波はデビューしますが、7か月後に、内紛で猪木が日本プロレスの乗っ取りを謀ったとして追放されます。1972年、新日本プロレスを旗揚げした猪木について行った18歳の藤波は、必死でトレーニングに励みます。1974年に行われた「第1回カール・ゴッチ杯」に優勝した藤波は、ご褒美に海外武者修行の切符を手にします。

 「海外は新間寿さんに『行け』と言われました。マンネリ化を防ぐためだったのでしょう。僕と木戸(修)さんは西ドイツのトーナメントに10カ月。それでもまだ、帰国にふさわしい話題がなく中途半端でした。それからアメリカのフロリダに行って、カール・ゴッチさんのところで毎日寝泊まり。本格的な格闘技漬けでした。ゴッチさんはアメリカンプロレスが嫌いだったから、ガチガチで本当にパンクラチオンみたいで(笑)。日本から月刊の『プロレス』とか『ゴング』といった雑誌が届いても『こんなもの見るな』と没収されました。ただただ『ここで練習すればいいんだ』と」

 ヨーロッパに転戦。藤波は神様カール・ゴッチの家に住み込んで、ここで日本人選手としては最も長い間を過ごし、相手がどんな手を使ってきても反撃できる、懐刀の関節技を習得することになるのです。

 「アメリカにいるのに試合も見に行けない。毎日が練習でした。日中の練習のないときは『これ見てろ』って、ゴッチさんから表紙の硬い格闘技の分厚い本を渡されて、部屋で眺めていた。英語で書いてあるから、関節技の絵だけ見ていましたけど(笑)。ゴッチさんの家の周りには大きな池があって、そこにミカンの木が十数本植わっていた。その日陰の芝生の上に薄いシートを敷いて練習しました。ブリッジと寝技が中心です。大きな木の枝にぶら下がったロープによじ登ったり、ゴッチさんに足を持ってもらって鉄棒で弓なりに体を引き揚げたり……。吊り輪で十字懸垂、できましたからね。軽いし、バキバキだったものね。体操選手と一緒。鉄アレイとかはありません。いわゆるボディビルなんかやったことない」

 海外で過ごした3年8カ月の間に、藤波は多様なプロレスを自然に見ることになりました。「ゴッチさんは僕をアメリカに長く置きたくなかった。変なことしか覚えないから、って。それで、メキシコに行ったんです。ドイツで基本を、アメリカでショーマン的なものを、そしてメキシコでは動きの速いルチャリブレを。いろいろなプロレスを体感できましたね」

 海外生活で苦労したことはなかったのでしょうか?「メキシコでもどこでも僕はすぐに馴染んじゃう。嫌いなところはないです。たとえ秘境でも秘境にならない。楽しかったですよ。日本に帰りたいと思うこともたまにはあったけれど、旅が好きだから、『今度はどこに行こうかな。また、アメリカに行こうかな』と。アメリカにも友達ができたので、次の居場所を探せました。どこの州にもプロレスはあったから」

 「そのうち『アメリカで試合したいか?』って聞かれました。もちろん試合はしたいから、ノースカロライナで1年くらい。出番はだいたい3試合目か4試合目でしたね。当時、日本人は東洋の陰湿な反則イメージのタイツをはかされて、裸足で、ヒゲ生やして、というのがセオリーだった。猪木さんも馬場さんもそれをやってきたんだけれど、ゴッチさんは『藤波は裸足ではやらせない』と。普通のリングシューズとタイツをはいた日本人レスラーは僕が初めてでしょう」確かにそう言われると、アメリカ人にとってのプロレスにおける東洋人のイメージはそういうものでしたし、ヒロ・マツダでもマサ斎藤でもそうでしたね。

 「ゴッチさんの所での練習はブリッジで始まってブリッジに終わるようなもの。とにかくまずは首の鍛錬。ジャーマン・スープレックスをやるにも首をちゃんとしないと。100キロ以上の重みが、自分に落ちてくるわけですから」

 あるとき、ゴッチが言いました。「スープレックスにはまだ種類がある。誰もやったことがないし、危険も伴うけれど、相手を羽交い絞めにして、そのまま反って投げるものもある」と。「そう言われても想像がつかなかった。まさか、ゴッチさんを試しに投げるわけにもいかない(笑)。80キロくらいのダミーの人形を相手に練習しました。棒みたいで腕が短いんですよ。すべって何回顔面に落っこちてきたことか……」

 日本からは「藤波の仕上がりはどうだ?」という連絡が度々入っていましたが、完璧主義者のゴッチは「まだまだ、ダメだ」と答えていました。単身アメリカからメキシコに放浪の旅に出た藤波は、なかなか帰国命令のでないことに落胆しながらも、日本を離れて2年半が経ったとき、やっと新興団体WWWFジュニアヘビー級選手権(現WWE)に挑戦するチャンスが与えられたのでした。それもアメリカのエンターテインメントの代名詞とも言える由緒ある会場、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデン(MSG)で、同団体のジュニアヘビー級王者カルロス・ホセ・エストラーダに挑戦するタイトルマッチが組まれたのです。1978年1月23日のことで、日本からもテレビ中継のスタッフが駆けつけました。

 王者と言ってもキャリア3年(ほんの3日前にトニー・ガレアとの王座決定戦を制してチャンピオンに)、実力もゴッチ道場で鍛えに鍛え上げられた藤波(当時24歳)に肩を並べる程の選手ではありません。

 「結果次第で、日本に凱旋できるかどうかが決まる。テレ朝から舟橋慶一さんら放送スタッフが来ていて、東スポの桜井康雄さんもいた。アメリカの雰囲気も知っているけれど、MSGはビビるね。熱気というか、名前がね。誰にでも上がれるところじゃない。花道から会場に入っていくけれど、何とも言えない圧力に押し戻されるような感じでした」

 藤波は序盤から勢いよく攻め込み、逆水平チョップやジャンプ力の凄いドロップキックで攻め込んでいきます。窮地に立たされたエストラーダは、苦し紛れドラゴンスープレックスのローブローを叩きこんで挽回を図ろうとしますが、藤波の怒りに火をつけただけでした。藤波エストラーダの背後に回るや、フルネルソン(羽交い絞め)に捕えると、そのまま後方に投げを打ちます。見事なブリッジを効かせた藤波エストラーダの後頭部をマットに叩きつけると、レフリーが3カウントを叩きます。王座の交代劇です。2万人以上の観客がその時目にしたこの技は、今までに誰も見たことのない衝撃の必殺技でした。フルネルソンからのスープレックスホールド、藤波が世界初公開した奥の手の必殺技「ドラゴン・スープレックス・ホールド」(飛龍原爆固め)です。この技はフロリダ州・タンパのゴッチ道場で、カール・ゴッチさんから教えてもらったものでした。しかしゴッチさん本人も試したことはなく、それまで誰も使ったことのない技でした。タンパで藤波はただ一人、80キロくらいのダミー人形を相手に、この技の練習に励んだのでした(棒みたいで腕が短いので、すべって何回顔面に落っこちてきたことか。メキシコで数回試し運転はしていたようですが)。ゴッチさんが開発した「ジャーマン・スープレックス・ホールド」でさえ一撃必殺の決め技だった時代に、さらにフルネルソンで受け身が取れない状態で放たれるのですから、このフィニッシュに観客が受けた衝撃は計り知れないものがあったはずです。最大の奥の手を、最高の舞台で初めて繰り出したのです。

「期待されているのを感じました。試合前に新間さんが『なんかやれよ』とか無責任なことを言うから(笑)。それで、フルネルソンからのスープレックスが炸裂したわけです。やっているうちに無意識のうちに出た。エストラーダが柔軟だったからよかったですよ。頭からリングに突き刺さるような感じだった。よく怪我しなかったと思う。もし大怪我させていたら、リングから永久追放されたでしょうね」

 藤波が初披露したスープレックスに、客席は水を打ったようにシーンとしていました。レフェリーに手を上げられても、どうしていいか分かりませんでした。現地のファンも、信じられないものを見た衝撃に反応が遅れたのでしょう。パラパラと拍手があって、遅れてスタンディングオベーションが続きました。しかし、控室に戻ってみんなが「おめでとう!」と祝福してくれるものと思っていた藤波は、冷ややかな視線、険悪な雰囲気に拍子抜けしてしまいます。受け身の取りづらい危険な技と思った選手たちは、こいつは危ない奴だ…」「おまえはなんてことしてくれたんだ…」と冷ややかな目で、この「事件」の張本人・藤波を迎えたのでした。

 「意気揚々控え室に戻ったら、針のむしろですよ。ブルーノ・サンマルチノ、ゴリラ・モンスーン、ペドロ・モラレスらがいましたが、変な空気で、冷ややかな視線を浴びた。息が詰まるような感じで、汗を拭くような仕草を見せてタオルだけ持って控室を出ました」

 新間に「いや、すごい! よかったよ」と声をかけられましたが、気まずさが先行していた藤波は「何がよかったんですか。控室行ってみてくださいよ。人の気も知らないで」と応じたといいます。

 実際に1982年WWFは、この技を受け身が取りづらく危険すぎると「3年間禁じ手とする」と通告しています。結果、藤波自身も封印しました。

 技名は「ドラゴン・スープレックス(飛龍原爆固め)」。こうして、藤波はWWWFジュニア・ヘビー級王者という看板を引っ提げて凱旋することになりました。羽田空港に降り立った藤波は驚きました。「行くときは誰も見送ってくれなかったのに、ファンがいっぱいいるんです。半分はサクラで新日本プロレスの仕掛けだったのかもしれないけれど、海外のアーティストみたいな出迎え方で、後ろから誰か来るのかと振り返ってしまいました(笑)」

 ニューヨークでの一撃があまりにも刺激的だったので、ファンからはドラゴン・スープレックスが熱望されていました。「でもね、乱発しちゃうんです。歌手のヒット曲と一緒。それを見ないとお客さんが満足しないから。後のドラゴン・ロケットもね」一気にスターダムに駆け上った藤波が、「テレビの勝利者インタビューで、なんかしゃれたことを言わなきゃいけない」と考えて飛び出したのがこの言葉でした。「I never give up!」

 藤波は4日後に、ロサンゼルスのオリンピック・オーデトリアムで、マスクド・カナディアン(中身は当時は無名で、WWFで後に大スターとなるロディ・パイパーでした)相手に初防衛を果たして、アメリカ国内を転戦、日本での凱旋試合は1978年3月3日、群馬・高崎市体育館で、再びマスクド・カナディアンを相手に「ドラゴン・スープレックス」を初披露(「あの技はやめて欲しい」と試合前に言ってきたとか)。ここから日本で「ドラゴンブーム」が巻き起こるのです。鍛え上げた肉体と甘いマスクで、爆発的な人気の出た藤波のところには、ヴァレンタイン・デーに、トラック2台分のチョコレートが届けられたそうで、これは未だに破られていない記録だそうですよ。♥♥♥ 

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