「東大・京大で一番読まれた」という触れ込みもあり、263万部を突破した『思考の整理学』(ちくま文庫、263万部のベストセラー)で高名な「知の巨人」が、故・外山滋比古(とやましげひこ)先生でした。とても美しい日本語を書かれる先生です。難しいことをやさしい言葉でかみ砕いて書いてあるので、分かりやすいんです。印象的なたとえ話(例:飛行機人間とグライダー人間)がたくさん出てくるのも、引きつけられる理由の一つかもしれません。私は外山先生の本の大ファンなんです。高校生のみなさんにもぜひ読んでもらいたい一冊です。
この先生の本を読むと、「田舎の学問より京の昼寝」という諺がよく出てきます。あることわざ辞典には「田舎で勉強してもたかが知れているが、都はただそこにいるだけで見聞を広める材料がたくさんあるので知識が身につくということ」などと、とんでもない間違った解釈が載っていたのですが(笑)、そんなつまらない意味ではなく、これは、ローマの皇帝アウグストス愛用の言葉であった「ゆっくり急げ」(フェスティナ・レンテ)と同義で、「一本調子ではなく緩急のリズムをつけることが、生活には大事である」という意味です。つまり、一心不乱に勉強する田舎「モノ」より、勉強の合間に昼寝をするゆとりがある都「ビト」のほうが、成果が出るという教訓なんです。田舎の人は純朴だから、一心不乱に他のことは一切顧みることなく学問に精進します。それに対して、都の学者は生活にリズムを持って学問をします。学問をする合間に、一休み、昼寝をするゆとりがあります。いかにも遊んでいるようですが、そういった学問の方が、学問一筋の田舎の学問よりもすぐれた成果をあげることができる、そのように解釈してはじめて、このことわざのユーモアを理解することができるのです。「よく学び、よく遊べ」(←All work and no play makes Jack a dull boy.)と相通ずるところがありますね。やはり勉強一点張りではいけないことを教えています。
「急げや急げ」の一点張りじゃ、休むこと(昼寝)に罪悪感が生まれてしまう。要するに「田舎で大車輪、一刻を惜しんで学問に打ち込む人より、都でのんびり昼寝をしている人の方が、立派な学問をすること」を言ったものです。本にはいろいろな疑問の残る説明を見ることができます。
●田舎で学問を一生懸命勉強するより、都の京都にいて昼寝でもしながら、いろいろな所を見て歩けば、知識が知らないうちに身についてしまう。
●学問的な環境に恵まれていない田舎で一生懸命勉強しても、到達する水準はたかが知れている。それより、京都のような文化的刺激が多い都会にいれば、怠けていても自然に知識が身につくので有利だ。
本ばかり読むのが能ではありません。忙しくても、昼寝をする。そうすれば自然に頭が整理されて、よく働くようになり、立派な成果を収めることができるのです。自分のリズムが生まれて、一日一日の時間が、もってこいの練習時間になります。
さて、この諺で強く思ったのは、地方よりも都が知性を刺激する知的文化に溢れているという主張よりも、「京で昼寝をする(人の)心の余裕」です。それは、ゆっくりとした時間の中のこってりとした学びでした。そのように学ぶことを好しとされました。今思うと、若い頃の私は、
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知識は知力や教養をつけるきっかけに過ぎないこと。目標ではない
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知識だけを入れても仕方がないということ(教養があることと知識が豊富であることは異なること)
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知力や教養をつけるためには、ゆっくりじっくり考えることが必要であること