叶匠壽庵

◎週末はグルメ情報!!今週は和菓子

 私の好きな和菓子のお店に「叶匠壽庵」(かのうしょうじゅあん)があります。「叶匠壽庵」は、1958年創業の老舗和菓子店で、総本店は滋賀県の大津市にあります。創業64年で、革命的な和菓子を次々に生み出す、注目されている和菓子メーカーさんです。テレビ東京の『カンブリア宮殿』で、村上 龍さんも絶賛していましたね。「叶匠壽庵」は、菓子作りの理想の象徴を「梅林」であると言っておられます。梅花の一弁一弁に言葉を当てはめ、「五弁の思想」という和菓子の世界観を持っているのです。お店の名前には次のような思いが込められています。

叶…お客様のお口に叶いますように。

匠…新たな感性と伝統の技を融合させることで一つの菓子へ と表現する職人芸を日々磨きをかける。

壽…いのち永く生きることをことほぎ歓ぶおもてなし。

庵…湖と川と里山の自然に抱かれた小さな菓房。

 創業者の故・芝田清次さんは、「お客様をお見送りするとき、お客様の姿が見えなくなるまで、感謝の気持ちを込めてお見送りする」と言っておられました。私の尊敬する故・松下幸之助さんも、会社を訪れたお客様が帰られるときは、いつもその姿が見えなくなるまで見送り、最後に深々とお辞儀をしておられましたね。

 1958年に開店した滋賀県大津市の小さな和菓子屋「叶匠寿庵」は、15年後には日本の菓子業界を代表するブランドになっていました。1971年に、看板商品となる「あも」を発売。1973年に「阪急うめだ本店」のデパ地下に出店すると、ブームに火がつきます。その後、西武池袋本店と日本橋高島屋等にも出店し、1977年頃には、その3店舗で、全国すべての百貨店における菓子売り場の売り上げベスト3を占めるまでになりました。

 創業者の芝田清次さんは、39歳の誕生日を迎えるまで、まったく和菓子づくりとは無縁の仕事をしていました。18歳の時に徴兵され、日中戦争に従軍して中国に派遣され、歩哨に立っていた時に、銃撃を受けて左目を失いました。帰国後は警察官になりますが、留置場に勤務していた時に同僚との間でトラブルがあり、大津市役所へ転職します。市役所では、観光課で観光主任のポストを任せてもらえたのですが、しばらくすると「今ひとつ仕事として刺激が足りない」と感じるようになっていました。辞める決意を固めた頃には、「激しく未知の可能性への挑戦に己を賭けてみたい」と思うようになっていたといいます。

 1958年、芝田さんは家族の反対を押し切り、満39歳の誕生日に市役所を辞し、生まれて初めての和菓子づくりをスタートしました。餡炊きなどの基本は、友人の菓子屋の職長から10日間だけ教わったものの、最初はかなり苦労しました。炊いた餡は全体の7〜8割しか売り物にならない。それでも、明日の餡炊きに必要な丹波小豆を仕入れるために、毎日売り続ける必要がありました。雨の日も、風の日も、雪の日も、琵琶湖の近くにある「圓満院門跡」の駐車場に止まる観光バスの乗客に向かって、窓の下から窓の下へと「お菓子いりまへんか、買うておくれやす」と、声をからしながら売りさばきました。そうこうして、何とか和菓子をつくり続けて半年ぐらい経った頃のある日、店の前に立派な外車が停まり、運転手さんがうやうやしく後部座席のドアをあけました。当時、お客様の9割は近所か地元の人だったので、とても驚いたといいます。降りてこられたのは背の低い小柄な、精力的な風貌の、いかにも頭脳明晰な感じの眼の輝きをおもちの中年紳士でした。ただ、暑い盛りの夏の日ではあったにしても、その身なりはいかにも無雑作でした。開襟シャツはともかくとして、下はなんと縮みのステテコ姿だったのです。靴は一見して最高級とわかる上等の皮靴。つまり相当な地位のお方が、たまたま暇をみてふらッとお立寄りになった、いわゆる“お忍び”の感じでした。その方に続いて立派な奥様がお降りになりました。

「いや実はな、このあいだ知人からあんたのとこの最中をもろうてな。なんともいえん純な味わいに感心したんや。わしもこれ(奥様)もあの味が忘れられんようになってな」

 そのお客様は、なんと1万円分の最中を買ってくれたといいます。現在の貨幣価値では、5万円はくだらない額です。特に指示したわけでもないのに、家族全員が店の前までお見送りに出ました。

 ふと見ると、老いた両親は、胸の前に両手を合掌させながら、まるでお念仏を唱えるように「有難うございました、有難うございました」と呟きつづけています。二人とももう顔中、涙でくしゃくしゃになっています。その顔を見た途端、私も、それまでこらえにこらえていたつもりの涙がこらえきれず、堰を切ったようにほとばしらざるをえませんでした。脇の家内も泣いています。そしてふとうしろを振り返ってみると、小学生の息子と娘までがポロポロポロポロ涙をこぼし、しきりにしゃくりあげているではないですか。

 去ってゆく外車からは奥様が、後の窓に手をつけて振ってくださっています。ご主人はご主人で窓を開け、顔を突き出され「いつまでも頑張れよーッ、応援してやるぞーッ」と、車が見えなくなるまで励ましのお声をかけつづけてくださいました。

 その時の光景は、家族全員、生涯忘れられないものとなったはずです。失礼にあたると思い、そのとき芝田さんは相手の名前を聞きそびれたそうですが、わずか10日ほど後に、再び来店してくださったので勇気を出して聞いてみたといいます。「わしか、わしは伊藤忠の越後や」その人物こそ、伊藤忠の“中興の祖”と称される元社長、越後正一だったのです。

 竈(かまど)の前に座り、「竈さん、竈さん、いい和菓子を作れますように」と祈り、中学校を卒業したばかりの若者を中心に採用して、まさにゼロからの出発でした。作った和菓子を近くにある三井寺に行商に行き、観光バスの客相手に売って歩きました。雪が降るある冬の日、観光バス客に売って歩いていた時、肩に積もった雪を払ってくれる人がいました。「一生懸命やっていれば、道が開けてくる」三井寺の住職でした。これで元気を取り戻したといいます。

 次第に有名になり、今では「高級和菓子」の地位を獲得できるようになりました。京都銀閣寺では、和服姿の女性店員が、お客様の姿が見えなくなるまで、笑顔でお見送りをしておられます。♥♥♥

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