渡部昇一先生のエピソード(21)~タイプが打てない!

 故・渡部昇一先生は原稿を書かれる時はすべて手書きです。英語の論文も例外ではありません。先生が文明の利器の問題に直面されたのは、大学の卒業論文の時でした。大学の規則で英語で書くことはもちろんのこと、「なるべくタイプで打ったものを出せ」には弱ってしまいました。先生はタイプを打つことができないのです。日本人の先生なら手書きでも読んでくれますが、アメリカ人の先生はタイプを好まれ、昭和27年当時には、アメリカでは手書きの論文などはとっくの昔になくなっていたのです。幸いなことに、寮の同室の男子学生がピアノも弾けるし、タイプも打てる人物でした。また、たまたま旧制中学の柔道部の一年先輩でお医者さんの息子だった人が、タイプを持っていて、それを貸してやると言ってくれたので、それを借りて、同室の男性に打ってもらったのです。タイプの借り代も、タイプの打ち代も一切なく、友人の無料奉仕を受けて、先生の卒業論文は無事完成し、大学院に進むことができたのでした。

 大学院の修士論文の時も同じ問題に直面しますが、大学院院長である神父さんの秘書をしていた女性が、「私が打ってあげましょう」と言って打って下さいました。渡部先生が、院長先生の仕事のお手伝いをアルバイトでやっていたおかげで、無料奉仕をしていただけたのでした。本当に運に恵まれていたのが、渡部先生でした。

 ドイツに留学された時にも、やはり同じ問題がありました。先生が書き上げた画期的な博士論文の下書きは手書きで、指導教授には「手書きでよい」と言ってもらいましたが、正式に大学に出すには、タイプして印刷して200部提出しなければなりません。指導教授が「この論文は内容はよいが、書き手は東洋から来てタイプが打てない」という主旨の申請を大学にしてくださって、プロのタイピストを雇う特別金が出たのでした。当時のドイツの大学は豊かだったのです。活字の複雑な論文をタイプするのにプロのタイピストが半月かかりました、その間先生はすることがないので、ドイツ各地を旅行して楽しんでおられたのでした。このときだけは「芸がないことはいいことだ」と思った、と書いておられます。なまじタイプが打てると、それこそ半年かかって自分で打つことになる。タイプが打てないことによって、ヨーロッパを二週間見て回る時間を得たのでした。先生は次の様に回想しておられます。

 こんな恵まれた体験から、ついに私はタイプを打てない唯一人の英文科の教師として停年を迎えた。もちろん私はパソコンもインターネットもできない。しかし研究や発表に全く不自由しないでいるのは、その面で極めて有能な人がいつもついていてくれたからだ。私は会社員だったらとっくにリストラされている男であったろう。  ―『渡部昇一の着流しエッセイ⑤』(広瀬書院、2015年)

 不遇にくさることなく、脇目も振らずに一生懸命やっていると、「天から助けのロープが下りてくる」とは渡部先生の名言ですが、まさにその通りだと思います。

 結局、先生はタイプは覚えないままやってこられました。ワープロも使えません。全て秘書さんがやってくれたので不自由はなかったのです。インターネット時代には適応が難しく、機械・器具の発達にはついていけなかった、と回想しておられました。♥♥♥

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