「自然流」中原 誠

 現在の将棋界の地図は、藤井聡太六冠一色ですが、私の若い頃は、中原 誠(なかはらまこと)さんでした(今まで五冠を達成した棋士は大山康晴、中原誠、羽生善治藤井聡太のみ)。「あの匂うような清潔感は、ただものではない」と評されました。二十四歳で名人位を獲得し、十六世永世名人の称号を持つ棋士です。円い人柄こそがその強さの本源でした。一見強そうには見えないけれど、真の強さを持った棋士でした。攻防のバランスがとれ、攻めても守っても無理がなく自然でやわらかい。まるで水のような「自然流」の強さでした。人間的な強さを持った人でした。次の言葉は、将棋プロの内藤国雄(ないとうくにお)九段が、自分の将棋人生で一番心に残っていることを語った言葉です。ここに出てくる中原 誠は、その後名人となり大活躍したことは言うまでもありません。一流は一流を知る、私が好んで生徒に聞かせてあげるエピソードです。

 『初めてタイトルをとった第15期棋聖戦の対局の時でしたけど、僕は5分間の休憩時間をとってトイレに立ったんですわ。トイレの戸を開け、ふと足元を見たらスリッパがキチンと揃えられているんですわ。つま先を中に向けて、あとから入ってきた者が履きやすいように。びっくりしましたね。実は、僕が入るほんの直前に、対局相手の中原 誠がトイしに立ってたんです。つまり、このスリッパを揃えたのは中原本人ということですよ。それまでに何度かトイレに立ったとき、いつもスリッパがキチンと揃っているんで、これはここの旅館の女中さんがなおしているんやろうと思っとったのです。それがそうやなかった…。それが分かった瞬間、愕然となりましたね。
 タイトル戦に限らず、勝負というものは厳しいものでしてね。たいていの棋士は、休憩をとって盤から離れ、頭を冷やすもんですわ。それでもたいがいの人は頭の中からは「将棋」がはなれんわけや。あーでもない、こーでもない、と構想を練ってるんです。まして、トイレのスリッパがどっちの方向を向いていようとかまへんのですわ。普通の棋士なら。それどころか、ついうっかりスリッパを履いたままトイレから出てきてしまうとかね。僕なんぞは、座敷にまで履いてあがろうとして、ハッと気づいたことがあるくらいやからね。ところが中原はそうやなかった。あとから入って来るもんのために気配りまでしてるとは…。その心のゆとりに、思わず圧倒されてしまいました。こいつは近い将来、棋界の第一人者になれる男や、と直感で分かりましたわ。こんな器の大きな男やったら、そうなって欲しいとも思った。そんな思いでスリッパを眺めていると、自分の「将棋」がふと見えてきたんやなあ。将棋というのは不思議なもんでしてね。将棋を知り尽くしたプロ棋士が全く同じ陣形で打ち始め、それでも勝ち負けが決まるわけでしょう。これは、どれだけ先を読めるかという「知」的な部分だけで決着がつくんやなくて、知も情も意もその全てをかけた勝負なんですわ。(内藤国雄談)

 永世名人の資格を獲得し、大名人への道を着々と歩み続ける中原さんに、新たな挑戦者が名乗りをあげます。その名は森 鶏二(もりけいじ)。その年にA級に昇ったばかりの新進気鋭の棋士で、向こう意気が強く、タイトル戦は初めてでした。普通、棋士はあまり大ボラを吹きません。内心はどうあれ、公の取材などに対しては「一生懸命やります」とか「胸を借りるつもりで頑張ります」とか、謙虚なコメントが多いものです。言ってみれば、“面白くも何ともない”あたりさわりのないコメントです。しかしこの時のは違いました。「中原さんは強くない。」無敵のチャンピオンに向かって、挑戦者がいきなりこう言ったのです。「中原名人の全公式対局600局を盤に並べて研究してみたが、彼は決して強くないことが分かった。他の棋士たちは、中原は強いという暗示にかかって、自分で勝手に転んでいるだけだ。私は間違えない。私は必ず勝つ」と挑発したのでした。

 その第1局。さん本人以外の全ての人間が、驚くことになります。前日まで、パンチパーマをかけていた挑戦者が、一夜あけた当日、何と!いきなり剃髪(ツルツルの坊主頭)で頭を青々と光らせて対局場に入り、一同をアッと驚かせます。この日は大山康晴(おおやまやすはる)さんと花村元司(はなむらもとじ)さんが(特別)立会人でした。お二人とも坊主ですから、花村先生「大和尚に無断で坊主になっては困るな!」と即妙なジョークで笑いを誘いましたが〔笑〕、たちまち対局室にピーンと張り詰めた、一種異様な、空気が流れます。どんなに鈍感な人がいたとしても、挑戦者のあの姿を見れば、彼の決意がどんなものか、分かるでしょう。その気合に押されたのか、中原さんの出来は信じられないほど悪かったのです。中原さんも無心ではありえず、いささかはカッカとさせられて、完敗。さんは晴れの大舞台で、堂々の1勝をあげました。「これで勝負は面白くなった。」時の第一人者に挑戦者が先勝したのです。2局目は勝ちましたが、第3局をまた負けました。中原さんにとっては苦しい7番勝負でした。しかし、不調だった前半を1勝2敗で乗り切ったのが大きく、後半は持ち前の冷静さを取り戻して、鮮やかに立ち直り3連勝。4勝2敗で名人戦6連覇を飾りました。後になって、中原さんから「森君、あのときはビックリしたよ。心臓が止まるかと思った。どこのお坊さんかと思った」と言われたそうです。今から考えてみると、強がりを言っていただけだということが分かります。「弱い犬は吠える」自分が本当に強いと思うのなら、黙って勝てばよいのです。結果はすぐに出るのですから。頭を剃るのも邪道というものです。自然ではありません。ふだん通りの姿で出てくることが調和の精神というものです。マスコミ受けはよかったのでしょうが、私は当時「この八段の負けだな」と感じていました。技術的には拮抗していたのでしょうが、人間的に負けていると思ったのです。人間的に強い者が究極的には勝つということです。♥♥♥

【追記】 将棋界で確固たる地位を確立していた、その聖人君主のような中原誠・十六世名人が、将棋界のアイドル的存在だった元女流棋士・林葉直子と不倫関係にあると、恥ずかしくなるような赤裸々な電話のやりとりが報じられ大騒ぎになりました。ワイドショーから報道番組まで、テレビは連日この話題でもちきりになりました。あの中原名人にして……。人間、弱いものですね。💧💧💧

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