「ナガサキピースミュージアム」

 長崎市出身のシンガー・ソングライター、さだまさし(71歳)さんの提唱で2003年に開館した「ナガサキピースミュージアム」(同市松が枝町)が20周年を迎え、地元の「長崎新聞」で特集記事が組まれました。ここに何度も足を運んでいる私は、興味深く読みました。

▲「ナガサキピースミュージアム」

▲入り口

 「政治や思想の枠を超え、これからの50年、100年に向けて市民運動を展開したい」被爆50周年の1995年8月、当時「貝の火」運動と銘打った企画を発表した長崎市での会見で、さださんは、過去を振り返るのではなく、これから50年、100年に向かって発信を続けて行きたい、と述べられました。当初は巨大な世界地図に紛争地域を赤い光で表示し、赤い色が消えることを願うモニュメントを建設する構想でした。モニュメントの名称は「ピース・スフィア(平和な球体)」「貝の火」は、優しさや慈しみの大切さを描いた宮沢賢治の童話の題名に由来しています。1995年から募金活動が開始。県内では官民がこれに協力し、長崎県は建設地として県有地である松が枝埠頭(ふとう)の一角の無償貸与を決定。モニュメント建設の計画はその後、紆余曲折を経て、現在の平和発信施設「ピースミュージアム」の建設計画となっていきます。さださんは全国各地でのコンサートや、長崎市の稲佐山で毎年8月6日に開いていた無料の平和コンサート「夏・長崎から」の会場などで募金を呼びかけ。活動には、全国のファンがボランティアとして参加しました。2億円を目標に進められた募金は、8年間で約1億円に到達。2002年起工にこぎ着けました。私も、そして私の教え子たちも基金に協力しました。

▲「ピースミュージアム」五線譜のモニュメントの前で 後には豪華客船が

 さださんの幅広い人脈から、計画の趣旨に賛同した多くの著名人が協力しました。建物の設計は建築家の古市徹雄さん、照明は照明デザイナー石井幹子さん、屋外の五線のモニュメントはデザイナーの福田繁雄さんが担当。名誉館長には画家・グラフィックデザイナーの原田泰治(昨年3月死去)さんが就き、2003年4月19日の開館を迎えました。ミュージアムは鉄筋2階建て、建築面積約82平方メートル。国道に面した入り口側は箱型の外観。海側に三角形の建物がつながり、屋外の庭に五線譜を模した高さ9メートルのモニュメントがそびえています。展示室では「文化的側面から平和を考える」として開館以来、NPO法人「ナガサキピーススフィア貝の火運動」の自主企画や、外部の持ち込み企画による展示を、芸術・文科・平和・環境・人権・教育・医療・福祉・災害支援の分野まで、ほぼ途切れることなく開催してきました(企画展はこれまで304回)。使用料、入場料はいずれも無料で、今では自由な平和発信の場として定着しています。
 
 市民に身近で手軽な平和活動も展開しています。「戦争放棄」の願いを込めたフェルト製のミニアクセサリー「みどりのせんそうほうき」の作製は、湾岸戦争が始まった1991年、東京の女性が提起した活動が起源です。できる範囲で平和を願う気持ちを具体的に、行動に移すことを呼びかけています。ミュージアム開館後、ボランティアの発案で来館者への贈り物として作るようになり、市民向けの作製会なども開いています。私も何個かいただきました。

▲「みどりのせんそうほうき」私もピースミュジアムで何個かいただきました。

 貝の火運動の“成功”は、さださんの次の活動にもつながりました。2015年、海外の邦人医師らを支援する一般財団法人「風に立つライオン基金」を設立。同基金では高校生の社会貢献を顕彰するなど、ボランティアの裾野を広げる活動も展開しています(「高校生ボランティアアウォード」2016年~)。以下は、さださんの「ナガサキピースミュージアム」への思いです。 

 1994年8月の「夏・長崎から」の前夜に長崎の新聞記者さんたちと食事会をしていたのですが、ある新聞社の記者から「長崎被爆50周年を長崎人はどのように迎えるのでしょうか?」と聞かれました。それがきっかけで、長崎から世界に向けて「平和」について発信できるミュージアムを作ることを提案しました。
 「核時計」ではありませんが、今世界でどのような紛争が起き、誰がどのように困っているかをすぐに理解できる施設を「長崎」に作りたいと思ったのでした。それも被爆地長崎をきちんと理解して来てくださる県外の方は「平和ゾーン」に行ってくださいますが、被爆地長崎を気にとめない人たちのために、平和のゾーンへの小さなお勝手口を作りたかったので、市内の「観光ゾーン」に作ることにこだわりました。
 当時の高田勇知事が極めて強い理解を示してくださり、現在の松が枝埠頭(ふとう)の土地をお貸しくださったのでした。でも当時は公衆便所があり、バスの駐車場になっていてほこりだらけで、現在のように美しい場所になるとは思わない頃でした(笑)。「しばらく我慢してください、きっときれいになります」と言われましたが、最初は信じられませんでした。
 建設資金も当初は2億円を夢見ていましたが、なかなか大変でした。でも名誉館長だった故・原田泰治さんのお力で、設計を古市徹雄先生、モニュメントを福田繁雄先生、ライトアップを石井幹子先生という超一流の皆さんが、ほぼボランティアでお引き受けくださって、思っていたよりも安く、早く完成しました。ありがたくて涙が出ました。
 小さなミュージアムですが毎月企画を立てて平和のための啓発活動を行ってきました。およそ20年の間、途切れることなく発信を続けてきたことは、とても素晴らしいと思います。
 貝の火運動も途切れることなく続いており、「平和を心から願う」人々はたくさんおられるのだと心から思います。問題は長崎という土地柄や人々の性質もあって、なかなかどんどん参加して自ら広げたり、改善していこうという方は少ないです。しかし、潜在的にはかなりたくさんの若い方が興味を持ってくださっていますので、そこに働きかけていきたいと思います。
 NPO法人の活動としても、東日本大震災被災地の福島県南相馬市の小中学生たちを長崎市内や五島列島に招待してきましたが、これも素晴らしい活動でした。もちろん、まだまだやってゆかねばならないこともありますが、かなり頑張っていると思います。
 20周年はこういう活動にとって一つのけじめになる年です。僕も「夏・長崎から」は20年でやめました。しかし、ナガサキピースミュージアムは世界で一番小さなピースミュージアムとして認められています。被爆地長崎から、たとえ小さな声であっても平和を発信し続けることができるということは、とても素晴らしいことです。
 ボランティアの高齢化については何もピースミュージアムに限ったことではありません。できるだけ若い方に参加していただくためには、より多くの広報活動を行い、メディアの皆さんにもお力をお借りして、この運動が続くように頑張りたいと思います。(さだまさし談)

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