忘れてはいけない「服部くん事件」

 毎年ハロウィーンの時期が来ると思い出す事件があります。1992年10月17日にアメリカで起きた、服部剛丈(はっとり・よしひろ)くん射殺事件です。留学中の日本人の高校生が、ハロウィーンパーティーに出かけた先で、訪問先を間違えたために射殺されてしまったという痛ましい事件です。日本とアメリカの銃社会の違いや、自己防衛権(正当防衛)のあり方をめぐって、大きな社会的議論を巻き起こしました。

 服部くん(16歳)は愛知県立旭丘高校の2年生で、AFSの交換留学制度を利用して、1992年8月からアメリカ・ルイジアナ州バトンルージュ市に留学していました。事件当日の夜、アメリカ人のホストファミリーの息子のウェブ・ヘイメイカーくんと一緒に、10月17日、日本人留学生を招いて開かれるやや早めのハロウィン・パーティーに出かけました。俳優・ジョン・トラボルタ風に仮装して、パーティーの会場である友人宅に出かけました。ところが、訪問先の住所を間違え、パーティー会場ではないピアーズ家を訪問してしまいます。その家の住人がロドニー・ピアーズ(Rodney Peairs)でした。ピアーズの妻が不審者だと思い込み、パニックになり「銃を持ってきて」と夫に知らせました。夫・ピアーズは .44マグナム拳銃を持って現れ、「Freeze!(動くな)」と叫びました。しかし、服部くんはその意味を理解できなかった可能性が指摘されています。服部くんは「We’re here for the party.(パーティーに来たんです)」と説明しながら近づき、ピアーズは発砲しました。弾は服部くんの胸を貫通し、搬送途中に亡くなりました。当時、「Freeze」を「Please」と聞き違えたのではないかという報道が広くなされましたが、実際に何を聞き取ったのかは確定していません。

 このあたりの事情は、主任弁護人のチャールズ・ムーアが「「服部君裁判」勝利の瞬間」という独占手記を『文藝春秋』1994年11月号に寄せていました。この事件の全貌がよく分かる資料でした。そしてこの後、アメリカでもさまざまな銃規制の運動へとつながっていくのです。服部くんの死を無駄にしないためにも、ご遺族の方々も貴重な取り組みをしておられます。ビル・クリントン大統領の下で、「ブレイディ拳銃管理法」(銃の販売店に対し、購入者の身元調査を義務づけるもの。これにより重罪の前科がある者、麻薬中毒者、未成年であることが明らかになった場合、その者たちへの銃の販売は禁止となる)が可決されましたが、この法律も、銃を持つ権利を擁護する共和党政権下の2004年に失効しています。その後の銃規制の逆行にはいらいらさせられてばかりです。各所で銃の乱射事件が絶えません。米国内の銃は増え続け、今では総人口を超す約4億丁が出回ります。連邦最高裁は、銃の携行規制を緩める判決を出しました。人種や政治的な分断、格差が広がる米国を憂えます。服部くんの事件現場に居合わせたウェブさんは、心理カウンセラーとして心の病がある人々を手助けしてきましたが、2022年3月、妻と2歳の娘を残して自ら死を選びました。ウェブさんは事件で自分だけが生き残った罪悪感を抱え、心的外傷(トラウマ)の症状が長く続いていたといいます。

 さて、当時はまだこの“Freeze!” the gunman said.(「動くな!」と殺し屋は言った)という表現が、日本ではほとんど知られていませんでした。当時、辞典にも収録はなかったんです。ただ、私が編集に携わった『ライトハウス英和辞典』(研究社)や『新リトル英和辞典』(研究社)だけは、この口語表現を載せていたのを覚えています。というのも、当時警察小説(しょっちゅう出てくる表現です)をたくさん読んでいた私が、原稿の中に書き入れたものです。この表現を服部くんが知っていたら…、と悔しく思ったのを、今でもはっきり思い出すことです。

 ピアーズは故殺罪(manslaughter)で起訴され、1993年5月に刑事裁判が行われました。裁判では、次のような点が争われました。

・ピアーズは自分と家族の生命を守るために発砲したのか。

・服部さんが本当に危険な侵入者に見えたのか。

・発砲する前に、相手の正体を確認する余地はなかったのか。

検察側は、ピアーズの行動には重大な過失があったと主張しました。一方、弁護側は、ピアーズは「家族を守るためだった。生命の危険を感じた。正当防衛として発砲したのだ」と主張しました。そして、1993年5月23日、陪審員12人(全員が地元住民)がわずか約3時間の協議で全員一致「自衛のための合理的な行動だった」と無罪評決が下されました。日本では、この判決に大きな衝撃と反発が広がりました。日本ではこの判決に強い衝撃と反発が起こりました。一方、アメリカ南部では「自宅を守る権利」を重視する意見も少なくありませんでした。

 刑事裁判では無罪となりましたが、服部くんの両親はピアーズに対して損害賠償を求める民事訴訟を起こしました。こちらではピアーズの過失責任が認められ、最終的に約65万3,000ドルの損害賠償を命じる判決が確定しています。つまり、刑事裁判では無罪、民事裁判では賠償責任ありという結果になりました。

民事裁判では、

・服部くんは武器を持っていなかった

・ピアーズとの距離は刑事裁判で示されたほど近くなかった

・ドアを閉めたり警察を呼んだりする選択肢があった

・発砲は合理的な自衛行為とは言えない

などが認定されました。1994年9月、裁判所は「武力を行使する必要性はなく、あまりに軽率で不当な発砲だった」「正当防衛とは認められない」として、ピアーズに約65万ドル(約6,500万円)の損害賠償を命じました。妻のボニーについては責任を認めませんでした。さらに、1995年に控訴棄却、1996年にルイジアナ州最高裁が上告を退けることで、遺族側の勝訴が確定しました。事件後、彼はニューヨーク・タイムズ紙に「もう二度と銃を手にすることはないだろう」と語ったとされています。

 この事件は日本国内で銃規制のあり方を考える大きなきっかけになりました。服部くんの両親(服部政一・美恵子さん夫婦)は、アメリカの銃規制を求める署名活動を行い、集まった署名は170万通に達し、1993年にはアメリカを訪問して、当時のクリントン大統領に提出しました。この事件は、アメリカにおける銃購入時の身元確認制度をめぐる議論とも結びついて語られます。ただし、1993年に成立したブレイディ法(Brady Handgun Violence Prevention Act)は、事件だけを契機に成立したものではありません。

 私が特に重要だと思うのは、単なる英語の誤解による悲劇として片付けてはいけないということです。確かに、“Freeze!” という英語の命令を理解できなかった可能性はあります。しかし、問題はそれだけではありません。日本とアメリカでは銃に対する社会的認識が大きく異なっていました。アメリカでは自宅への侵入者に対する武器使用が、一定の条件で正当防衛として認められるのです。一方、訪問者が危険人物かどうかを確認せずに銃を発砲することの是非が問われた裁判でした。16歳の少年が、異国の地で、楽しいはずのハロウィーンの夜に命を落としたことは、本当に痛ましいことです。

 この事件は、日米の文化や法律、銃社会の違いを考えるうえで、今も忘れてはならない出来事だと思います。服部剛丈くんの事件後、ロドニー・ピアーズ(Rodney Peairs)と妻のボニー(Bonnie Peairs)は、事件のあったバトンルージュから転居し、その後の消息がほとんど伝えられていないとされています。「ピアーズ夫妻は行方不明になった」という話は、確かに事件のその後を紹介する記事などで見かけます。ただし、夫妻が正式に行方不明者として届け出られた、という意味ではありません。 現在どこに住んでいるのか、存命なのかを確認できる信頼性の高い公的情報は、今回の調査では見つかりませんでした。

 1994年9月に、民事裁判で約65万3,000ドルの賠償を命じられました。その後、夫妻はバトンルージュを離れています。1994年9月15日のUPI通信が、ロドニーはすでに同市に住んでいないと報じています。ルイジアナ州立大学図書館の資料によると、住宅保険から支払われたのは10万ドルで、服部くんのご両親が実際に受け取ったのは、弁護士費用などを差し引いて約4万5,000ドルでした。なお、夫妻が自己破産したという話もネット上にはありますが、現在の所在や生活状況については断定できません。

 この事件はアメリカでも大きな反響を呼びました。服部くんのご両親はその後、銃規制運動に取り組み、多数の署名を集めました。事件はアメリカの銃規制議論にも影響を与えたと評価されています。また、ご両親は保険会社から支払われた10万ドルをもとに「YOSHI基金」を設立し、銃規制運動の支援や日米交流や平和教育活動を長年続けています。この事件はしばしば「文化の違い」の事件として語られますが、それだけではなく、アメリカ社会における銃所有権、自宅防衛、人種認識、正当防衛の範囲など、多くの問題を提起した事件として現在も研究・議論の対象になっています。♥♥♥

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