医師としての森 鴎外

 今年は、島根県津和野町出身の文豪森 鴎外(もりおうがい)の没後100周年ということで、いろいろと騒がしいようです。記念のイベントが8月6日、今年リニューアルされたJR津和野駅などで行われました(改修工事費約3億7700万円)。同駅も開業100年で、県産スギと石州瓦を使った新駅舎の竣工式も併せて開かれました。待合室にはパソコンが使える電源付きカウンターを設置し、交流・ワークスペースとして活用できるように改修しました。駅舎隣接のトイレには、展望デッキが新設されました。津和野町によると、鴎外は10歳で上京後一度も帰郷することはありませんでした。生前「鉄道が津和野まで開通したら帰る」と約束しながら、開業1カ月前に東京都文京区の自宅で病死しています。この日、津和野駅周辺は、多くの見物客でにぎわいました。NHKドラマ「坂の上の雲」鴎外役を演じた俳優榎木孝明さんが、カイゼルひげに紋付きはかま姿。「DLやまぐち号」から駅に降り立つと、太鼓の奏者が先導する中、人力車で町内をパレードしました。

     最近では、津和野町出身の文豪・森鴎外に宛てた書簡が、新たにおよそ400通も見つかり、一部が公開されました。明治から大正にかけての著名な小説家などが書いたもので、鴎外の幅広い交友関係を示すものとして研究が進められています。▼夏目漱石や、その妻、▼正岡子規などの俳人のほか、▼芸術家の岡倉天心など、合わせて60人を超える著名人の名前が差出人として書かれています。このうち、歌人・与謝野晶子の書簡には、パリに行く旅費を鴎外が工面してくれたことに礼を述べていて、「決して他言はいたしませぬ」と秘密にしていたことが分かります。また、かつて総理大臣を務めた西園寺公望の書簡では、西園寺が、鴎外から預かった布に書を記したところ、書き損じたため、自分で別の布を用意したと詳しい交友関係が明かされています。この書簡を町立「森鴎外記念館」に寄託したのは、鴎外のひ孫にあたる山田礼於さんで、2つの箱いっぱいに書簡が入っているのを見つけ、「読み解いてほしい」と研究を依頼したということです。「森鴎外記念館」山崎一穎館長は、「鴎外の交友関係の広さを具体的に示していて、さらなる発見が期待できる。この研究は町民の財産になる」と話しました。 

     その鴎外は、軍人官僚として、陸軍軍医総監、陸軍省医務局長と、軍医社会での最高位にまで上り詰めました。ただし、森 鴎外「有能な作家だが無能な軍医だった」と言われています。 ドイツに留学してコッホから医学を学んだ鴎外は、「病気の原因は病原菌なので、脚気にも病原菌がある」と信じて、「脚気の原因はビタミン不足」とする説を採用しませんでした。その結果、日露戦争では多くの陸軍兵が脚気で死亡しています。私は3年間島根県立津和野高等学校に勤務し、鴎外には興味を持って調べていました。「森鴎外記念館」も学校から自宅への帰り道にあり、何度も立ち寄っています。

 明治の海軍では、軍艦乗組員の脚気患者の蔓延が深刻な問題となっていました。高木兼寛(たかぎかねひろ)は、海軍医務局副長に就任以来、軍隊内部で流行していた脚気に本格的に取り組みました。その原因はある種の栄養素の欠乏のためではないかと考えた彼は、兵食を分析した結果、炭水化物が多くタンパク質が少ない場合に脚気が発生すると結論し、予防対策として兵食をパンや肉食中心の洋食に変えることを提案しました(栄養説)。高木兼寛は、脚気の原因が食べものにあることをいち早く見抜き、兵食に麦飯を取り入れ、海軍の脚気を激減させました。イギリスに留学経験のあった高木は、イギリス海軍に脚気がないことに注目し、洋食が解決の鍵であることに気づいたのでした。海軍は、高木が主張した白米の中に大麦を混ぜた麦飯食で脚気の撲滅に成功したんですね。これに対して日本陸軍は、軍医総監の石黒忠悳が、脚気は細菌が引き起こす感染症である(細菌説)として高木兼寛説を批判し、東大教授緒方正規「脚気病菌発見」を発表しました(緒方の細菌説はドイツ留学中の北里柴三郎によって否定された)。しかし、陸軍はその後も、石黒忠悳森 林太郎(東京大学医学部出身)が頑なに高木説を否定し続け、明治27年の日清戦争では、食糧を陸軍省医務局が一元管理し全部隊に白米を支給した結果、戦死者453名に対して脚気による死者4,064名を出したのです。一方海軍はゼロです。その後も、陸軍上層部は脚気「細菌説」を採り続け、10年後の日露戦争では陸軍の被害は、戦死者4万8400余名に対して傷病死者3万7200余名、うち脚気による死者は2万7800余名にものぼったそうです。一方の海軍はわずか3人です。その後、ビタミンが発見され、脚気病はビタミンB1の欠乏により起こることがわかりました。イギリスのビタミン学界の第一人者レスリ・ハリスは、世界の八大ビタミン学者を写真入りで紹介し、その中で高木兼寛を二番目に取り上げ、彼の偉大な業績を紹介しています。高木はこれらの功績により明治21年(1888)日本最初の博士号授与者(文学・法学・工学・医学各4名)の列に加えられ、医学博士号を授与されました。彼が「ビタミンの父」と称せられるのはこういう訳です。さらに明治38年(1905)に、華族に列せられ男爵の爵位を授けられます(一方の森は華族にはなれず)。人々は親愛と揶揄の両方の意味をこめて彼のことを「麦飯男爵」と呼んだと伝えられています。また、死去した直後に従二位の位と勲一等旭日大綬章が追贈されています。高木が臨床医学を学んだイギリス医学と、東京大学や陸軍など日本の医学界の主流であった研究至上主義のドイツ医学の、いや明治政府全体を二分する勢力の代理戦争的様相を呈していたようです。ここら辺の様子は、坂内 正『鷗外最大の悲劇』(新潮選書)に詳しく出ています。森 鷗外は脚気の予防因子がビタミンBであることが判明し栄養説の正しさが立証された後も、これを受け入れることなく、自説の非を認めることなく1922年に亡くなっています。ここら辺が、私が医師としての鷗外を好きになれない理由です。

 高木兼寛は、医師としての功績がよく知られていますが、軍人(海軍軍医総監)、経済人(帝国生命保険会社創設)、経営者(病院や医学校の経営)、教育者(成医会講習所)、政治家(貴族院議員)、開拓者(北海道夕張郡開拓事業)、芸術家(書跡の達人)、宗教家など、さまざまな顔を持つ「マルチ人間」だったようです。幼い頃から学問を好み、7歳頃から四書五経を学び始めると、9歳頃には剣術の稽古も始めて、体格もたくましくなっていきます。当時、地元の穆佐(ぼくさ)村に、黒木了輔という医者がおり、貧富の別なく人々の面倒をみて、村人から感謝されていました。兼寛黒木の姿を見て、自分の人々のために尽くす医者になりたいという思いを抱きました。

 2013年、「第33回高校生英語弁論大会」IMG_2308(全国国際教育研究協議会主催)に、生徒を引率して宮崎市に行くにあたって、高木兼寛の銅像が「宮崎県総合文化公園」に建っていると聞いたので、どうしても見ておきたかったんです。それが写真の銅像です。 宮崎出張の大きな収穫の一つでした。♥♥♥

▲全国第4位となった安樂万知子さんと高木兼寛像の前で

 兼寛はこんな言葉を残しています。「病気を診ずして、病人を診よ」。他人をいとおしむ心というものは、精神的に自立した人間でなければ十分に成熟しない。医師が相対するのは、『意識』を持った病める人間である。医師たる者は、病人の痛みがわかる、温かい心の持ち主でなければならない、というものです。大正9年(1920年)に世を去ります。享年72。♥♥♥

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