変さ値

 雑誌の『潮』4月号に、大好きな鎌田實(かまたみのる)先生さだまさしさんの対談が掲載されました。「やっぱり人生は、“変”じゃなきゃダメだよね」です。連載「鎌田實の男の“変さ値”」の第一回目にあたります。鎌田先生は3月5日に『女の変サ値』(潮出版、2026年)という本を出版なさっておられます。人と違っている個性「変サ値」について語り合いました。「偏差値」より大切なのは、人とは違う“自分らしさ”——鎌田實先生はそれを「変さ値」と名づけました。空気を読みすぎず、変わっていることを恐れない。その姿勢は予測不能な時代において、変化を恐れずに自分を柔軟に変えることができる力でもあります。二人とも〝変な人〟が好きですものね。

 さだまさしさんが2000年にリリースした『日本架空説』というアルバムには「八ヶ岳に立つ野ウサギ」という曲が入っていました。諏訪で山の診療所を守り続けてた、故・小松先生鎌田先生をモデルに歌にしたものでした。故・柴田紘一郎先生をモデルにした「風に立つライオン」に続く医師モデル曲でした。二人は災害があると、北海道、九州、岡山、東北へと、すぐに支援に行かれました。鎌田先生さださんにはできるだけ甘えないようにはしておられますが、時々お願いごとをしてしまいます。その代わり、さださんから頼まれたことは何でも引き受けようと決めておられます。

 鎌田先生は、小さい頃から「変さ値」を大切にして生きてこられました。とにかく人と違うことをやって、自分らしい選択をする。その積み重ねが今の鎌田先生を作っているのです。「変さ値」とは、人とは違う自分らしさやユーモアです。他の人と比べて自分は変なのではないか、劣っているのではないか、不器用な人間だと思われているのではないか――そんな気持ちになることもあるかもしれません。けれど、人と違う部分、変である部分こそが、実はあなたらしさであり、ほかの誰も持っていない「自分だけの武器」なのです。

 鎌田先生は、20年ほど前から、ボランティアで毎年中学校や高校に行って、「教科書にない1回だけの命の授業」をしてこられました。中学や高校で、自分の学力がどの辺の順位にいるかを知るための「偏差値」。でも生きていく上で最も大切なことは「変さ値」。そのたびに、必ず「偏差値」よりも「変さ値」が大事だ、と話しておられます。それは、鎌田先生がご自身にもいつも言い聞かせてきた言葉です。「空気に流されるな。空気を読みすぎるな。空気をよどますな。空気をかき回せ。変わっていることを恐れるな」と。やがて、若者だけではなく、働き盛りの人やシニアの人たちにも、「もっと自分を出してみたらどうだろう」「変さ値」を提案されるようになりました。新しい言葉が生まれると、それを読んだり、聞いたりした人が「いいな」と思って使いはじめ、いつの間にか接触感染のように広がります。新しい言葉が広がっていけば、一人一人の生き方が変わるだけでなく、どこか閉塞感の漂うこの国の空気そのものも、少しずつ変えていけるのではないかと感じるようになりました。これからは、先行きの読めない予測不能の時代に入っていきます。「変さ値」の”変”は、「変化」の”変”でもあります。「変さ値」が高い人は、変化することを恐れない勇気を持っているのです。古い価値観にしがみつかず、自分自身を柔軟に変えようとする強さがある人。今までの考え方だけでは太刀打ちできないような出来事が次々と起きる時代にあって、そうした姿勢こそが、これからを生き抜く強い力になるのだと思います。

 もう一つ大切なことがあります。それは、他人の「変さ値」にも、敬意を払い認め合うことです。なぜあの人は、あんな考え方をするのだろう。なぜ、あんな行動を取るのだろう。そう思ってしまう場面もきっとあるはずです。しかし、自分の「変さ」を大切にできる人は、きっと他人の「変さ」も大切にできるのです。人間なので、合う・合わないはもちろんあります。だけれど、違いを認め合えるところにしか、本当の元気は生まれないと思うのです。幸せに生きるために必要なものとして、「健康」「良い人間関係」「自己決定」の三つがよく挙げられます。この中で、日本人がいちばん苦手としているのが「自己決定」かもしれません。世間の空気に支配されるのではなく、自分が人生の支配者になること。それこそが、まさに「変さ値」の高い生き方なのです。お行儀よく、偏差値の高い優等生を目指すのではなく、まずは少しずつでいいので、勇気を持って自分の中に「変さ」を作り出してみてください。

 変であることに、おびえる必要はありません。変ということはユニークということ。人と違うことを恐れず、個性的な表現や新しい発想をすることが大事なのです。世の中はどんどん変わっていきます。今までの考え方では、太刀打ちできないような時代がやってくるので、人と違う自分の「変さ値」に気づき、自信を持つことが大切なのです。あえて自分の「変さ」を隠さず、時々その「変さ」を表に出してみたらいい。ちょっと息苦しさが減り、きっと生きるのが面白くなるはずです。

  対談の中で、さださんの祖母・エムさんと母・喜代子さんの「変さ値」の突き抜け具合が語られています。さださんはおばあちゃん子でしたから、エムさんの想い出は山ほどあります。数々のエピソードを読むと、ただ者ではなかったことが本当によく分かります。「こんなにすごいおばあちゃんがいたのか」「こんなにすごい母ちゃんがいたのか」と驚きの連続でした。

 好奇心と義侠心の強い母・佐田喜代子さんは、1985年に、子育てを綴った自伝『永き旋律-さだ家の母と子供たち』を出版しています。長男の佐田雅志さんに加え、次男で元プロサッカー選手の佐田繁理さん、長女で歌手の佐田玲子さんの3人を育て上げました。喜代子さんは1926年、長崎県生まれ。家計が苦しい中、さださんを有名なバイオリン教師に師事させ、幼稚園にも通わせずに、家で猛烈な練習をさせました。関係者は「バイオリニストを目指した母親との日々が、現在のさだの素地」と話します。さださんは2011年、ラジオ番組で喜代子さんについて、「夜叉(やしゃ)のごとき菩薩(ぼさつ)。愛されているという信頼があったから夜叉である母に対して愛情が揺るがなかった」と話していました。お母さんは詩作と音楽を趣味として、女声合唱団「MSコーラス」を主宰して、息子さんの作品を歌い続けておられました。

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 1975年、フォークデュオ「グレープ」時代の代表ヒット曲「無縁坂」(むえんざか)には、「♪母がまだ 若い頃 僕の手を引いて この坂を登るたび いつもため息をついた」という歌詞があります。架空の親子を描いてはいますが、逆境を乗り越えて、さださんを育て上げたお母さんの姿を投影していたことは間違いありません。山口百恵さんに提供した「秋桜」(コスモス)は娘が嫁ぐ母親の気持ちを歌った歌ですが、喜代子さんを思う気持ちがあるからこそできた傑作です。映画化された小説『眉山』にも、故郷でガンで死に直面する母親を介護する娘の物語を描いておられました。『永き旋律―さだ家の母と子供たち』(自由国民社)は、2008年全面改訂・大幅増補で復刊しました(写真上)。その中の「帰郷、そしてデビュー」と題された章には、さださんが大学二年生の終わりに中退をして長崎に帰ってきたときの様子が詳しく書き込まれています。過労による急性肝炎を患っての帰郷でしたが、アルバイトを掛け持ちして無理をしたために、自律神経をやられ心身共にボロボロになっての帰郷でした。帰ってきたまさしさんを目にしたときは、「あぁ、これでもう心配しなくて済む。食べるものも、身の回りのことも何でもしてあげられる」と。まずは身体を休めて欲しい、遠慮せずに目一杯甘えて欲しい、と思ったそうです。故郷に帰って少し落ち着いたさださんは健康を取り戻し、ギターを取り出して歌作りを始めました。作品ができ上がると、夜中でも何でも家中の者を起こして、新曲発表会が始まるのでした。そうして初めて聴かせてくれたのが「無縁坂」だったのです。お母さんは涙が止まらなかったと言います。「ヴァイオリンをやめて軽音楽の作詞・作曲を手掛けたい」と言い出した高校生のさださんに、お母さんが語ったささやかな人生の経験談を真っ先に歌にしてくれたその優しさに、言葉が出なかったと言います。泣ける話です。♥♥♥

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