「田中角栄」(たなかかくえい)が今もなぜかブームになっていますね。没後30年が経過し、時代もライフスタイルも日本を取り巻く状況も大きく変化したにもかかわらず、田中角栄の言葉に勇気づけられるとして、関連書籍が相次ぎ出版され、ベストセラーになっています。田中角栄といっても、若い人たちにはピンとこないかもしれません。
田中角栄は1918年、新潟県刈羽郡に生まれました。高等小学校を卒業後、旧制中学へは進学せずに就職しました。夜間の専門学校で土木や商事実務を学びましたが、自らを「高等小学校卒」と称していたように、学歴は低く、歴代の首相で高等教育を受けていないのは田中角栄だけです。土建会社を作って成功を収めると、国政へ進出します。1947年に国会議員に初当選、郵政大臣(現・総務大臣)、大蔵大臣(現・財務大臣)などを歴任し、1965年に自民党幹事長に就任。1972年、日本列島を高速道路・新幹線などの高速交通網で結ぶという「日本列島改造論」を打ち立て、第64代内閣総理大臣に選ばれます。総理在任中には日中国交正常化を実現。さらに、列島改造論に基づいて高速道路や新幹線の整備を進め、「地方分散」に取り組みました。かつて霞ヶ関の省庁で事務方の重職を務めた官僚が、こんな言葉を残しておられます。
田中角栄という人は、官僚の使い方が実に巧みでした。自分の知らないこと、自分に理解できないことに関しては、われわれ官僚のレクチャーを積極的に受け入れました。それでいて、われわれが驚くような発想を投げかけてくる。いま批判されるような官僚主導というものとは、ひと味もふた味も違っていました。学歴はなかったですが、頭の回転がすごい。情にも厚く、素直に尊敬できる資質を持ち合わせた政治家でしたね。
裸一貫から総理に上り詰め、「今太閤」と呼ばれた田中角栄ですが、在任期間はわずか2年半でした。「ロッキード事件」が発覚し、1974年に内閣総辞職、1976年には逮捕されます。自民党離党後も「闇将軍」と呼ばれるほどの影響力を発揮し、無所属で出馬して地元選挙区で当選し続けましたが、1985年に脳梗塞で倒れると、1990年 に政界を引退。1993年に75歳で死去しました。昭和を代表する政治家田中角栄が、今なぜ見直されているのでしょうか?「現代の政治家に対する不信感、リーダーシップ不足への不満、政治状況に対する閉塞感など日本における政治不信が続く中」、この本は「時代を超えて語り継がれる人間・田中角栄の『人生と仕事の心得』を厳選し、100の言葉で紹介」「角栄の言葉を通して、勇気や自信を得ることのできる、人生に役立つ言葉が綴られて」いることなどを理由に挙げています。つまり「こんな時代だからこそ、角栄の言葉から明日への勇気をもらいたい」(宝島社)という人が多いということでしょう。毀誉褒貶が相半ばする政治家でありながら、これほどいろいろな書籍が発売され、実際に売れているのは、田中角栄くらいではないでしょうか。裸一貫から上り詰めたエピソードや旺盛なバイタリティ、人情味あふれる素顔に惹かれた人。真理をつく言葉の数々に勇気づけられ、自己啓発書のように読んでいる人など、書籍の楽しみ方は人それぞれでしょう。私たち教員にとっては、教員の待遇をずいぶんよくしてくれた政治家として人気がありますね。
「選挙でよく、『オレは総理になる』なんて言っているヤツがいるが、一体てめえに何ができるというんだ。そんなヒマがあるなら、選挙区をとことん歩け。歩いて初めて、政治家として困っている選挙区のために、自分がいま一番何をやらなければならないかが分かる。徹底的に勉強してみることだ。気持ちが高ぶる仕事ができなくて、ナニが政治、代議士かッ」強大な権力を保持する一方で、圧倒的国民人気が高かった田中角栄さんが、よく若い田中派の議員をこう一喝していたと言います。自派の国会議員はもちろん、多くの官僚をシンパにしました。他派閥議員や野党議員にまで、隠れ田中派がいると噂されたほどです。
私の尊敬する渡部昇一先生は、ロッキード裁判に関して、田中被告側が反対尋問請求を正式に東京地裁に提出していたにもかかわらず、請求却下されているとして、かの東京裁判でさえ反対尋問を認めていたことを伝え、ロッキード事件の捜査手法の異常性を批判しておられました。
「個人的に田中角栄氏を好きであろうと嫌いであろうと、また彼が賄賂をとった可能性に対する自分の心証が白であろうと黒であろうと、それには関係なく田中氏に控訴・上告をやり続けてもらえようお願いし、明々白々な憲法違反や刑事訴訟法逸脱のない上級審の判決を期待するより仕方がない」。 |