義足レスラー谷津嘉章

 7月1日、レスリングの「全日本社会人選手権」において、男子フリースタイル125キロ級に、1976年モントリオール五輪代表で、プロレス界でも活躍した谷津嘉章(やつよしあき、66歳)さん=日本障がい者レスリング連盟=が出場しました。フリー130キロ級で優勝した1986年の全日本選手権以来、37年ぶりの復帰戦でした。谷津さんは、2019年6月に糖尿病の悪化で右膝下を切断しており、障害のある選手が健常者と対戦するのは極めて異例のことです。初戦は準々決勝。右足の義足を外し、松葉づえをついてマットに登場。勇気ある挑戦に大きな拍手が送られました。スタッフに松葉づえを手渡し、試合が開始すると、すかさず四つんばいとなり、相手と対峙、勝負するも、バックを取られるなどして、0―10で敗れました。試合後には取材に応じ「まず、障がい者という条件で(試合を)やらせていただいたことに感謝。一矢報いたかったが、これが現実。次は健常者から1ポイント、2ポイント取るという気持ちがメラメラ湧いてきた。障がい者の方々に『こんな感じでやるんだ』と見本になれれば。自分の健康が続くまでやりたい」「障がい者レスリングの見本になればと思った。やる前は気持ちが臆する部分もあったが、目的は全うできた」と語りました。障がい者レスリングを、パラリンピック種目に採用することをアピールするのが一つの大きな目標で、「(採用されれば)自分が出たい。パラの種目になるよう努力していく」と言葉に力を込めました。次は10月開催の「社会人オープン選手権」に出場を予定しています。「勝たせてもらいますよ。次は勝つ。一矢報いたる、という気持ち」と闘志を燃やしていました。

 私はその昔、この谷津嘉章さんの新日本プロレスデビュー戦を生で見ていたので、強烈な印象が残っています。1981年6月、蔵前国技館において、期待の超新星レスラーが国内デビュー戦を行いました。その男の名は、「モスクワ五輪幻の金メダリスト」谷津嘉章。日本大学レスリング部時代に全日本学生選手権、全日本選手権で優勝を重ね、「日本アマレス界最強のヘビー級」日本代表として1976(昭和51)年モントリオールオリンピック出場(8位)。米ソ冷戦の影響で日本がボイコットした1980(昭和55)年のモスクワ オリンピックに、「出場すれば、金メダル間違いなし」と言われていました。その谷津の新日本プロレス入りは、世間から大注目されました。

 プロレスデビューはニューヨークの聖地・MSG(マジソン スクエア ガーデン)という新人としては破格の扱いでした。待望の国内デビュー戦そして待望の帰国第1戦、谷津の国内デビュー戦は、蔵前国技館のメインイベント。それもアントニオ猪木とタッグを組むという異例の大抜擢です。なんとその対戦相手は、スタン・ハンセン、アブドーラ・ザ・ブッチャー組!当時、新日プロのガイジンのエースで日の出の勢いのハンセンと、全日プロから移籍したばかりの凶悪ブッチャーの電撃合体は、ゴジラとガメラのそろい踏みです。繰り広げられたのは想像以上の「阿鼻叫喚の地獄絵図」でした。試合開始前、猪木が谷津に気合注入の張り手。これに雄叫びを上げて応えた谷津が先発です。谷津はハンセンに突進するとアイリッシュホイップ、ハンマースルー、ショルダースルー。そしてドロップキック連発!館内は驚きの声に包まれました。しかし、この試合の谷津の見せ場はここまででした。ハンセンは谷津の果敢な攻めに一切付き合わず、パンチ、膝蹴りで一方的に谷津をぶっ倒します。それでも谷津はなんとか下からのヘッドバットで反撃を試みますが、ハンセンは猛烈なパンチ、エルボーの乱打から、ここでブッチャーにスイッチ。大歓声の中、新日マットに初登場したブッチャーは強烈な地獄突き、ヘッドバット一閃!たまらず、もんどりうって倒れる谷津。つかまりっぱなしです。外人コンビはクイックタッチを繰り返し、徹底的に孤立させて、流血に追い込みます。そしてフィニッシュはハンセン必殺のウェスタンラリアートを放ち、猛烈な勢いで谷津の首をかっ切り、完璧なピンフォール勝ちをおさめ、ハンセンは返す刀で猪木にもラリアートを見舞います。テレビ中継が終わっても、谷津の受難はまだ終わりません。この試合は3本勝負なのです。2本目、ハンセンとブッチャーはなおも谷津を徹底的になぶり殺し、パンチ、エルボー、地獄突き、ヘッドバット、ストンピング・・・「ぎぇぇぇー」という不気味な谷津の悲鳴が響き渡り、もはや衝撃映像、事故映像といった感じです。2本目はそのまま大混乱の中、ガイジンコンビの反則負け。なし崩し的に決勝の3本目が始まりますが、もはや谷津は完全に戦意喪失、戦闘不能状態で、孤立した猪木はうがい用のビール瓶を持ち出して狂乱ファイトで反撃を試みますが、すぐさま反則をとられ、結果は2-1で外人コンビの勝利。こうして記念すべき谷津の国内デビュー戦は、前代未聞の血だるま公開処刑マッチとなってしまいました。記念すべきプロ・デビュー戦を会場で観戦していた谷津のご両親が激怒して「プロレスなんか辞めてすぐに戻ってこい!」と言い放ったのも頷けるお話です。谷津のプロレス入りを後押ししたレスリング協会長の福田富昭氏も「これは大変な世界に谷津を入れてしまった。プロレスとは恐ろしい世界だと思いましたよ」

 実は、この日の対戦カードは、当初、まるきり違うものでした。アントニオ猪木はダスティ・ローデスと組んで、スタン ハンセン、タイガージェット・ シン組と、ブッチャーはキラー・カーンとのシングルマッチが組まれていたのです。ところが、さまざまなハプニングが起こります。まず、シンがブッチャーの新日プロ移籍に反発、ジャイアント馬場率いる全日プロへの移籍を決めます。さらに、ローデスがこの大会の3日前、1981年6月21日になんと、自身2度目となるNWA世界チャンピオンになってしまい、来日をキャンセルします。メインカードの2名が欠場という異常事態。これによってハンセンはシンではなく、ブッチャーとのタッグ結成となるのです。なぜに猪木のパートナーが谷津だったのか?「猪木が愛弟子に敢えて与えた試練」といえばカッコいいのですが、結果的には谷底に突き落とすだけでなく、上から放水して二度と立ち上がれなくするほどの鬼畜の所業です。

 その後の谷津嘉章のレスラー人生は、長州力維新軍の若頭を務め、長州らと共に全日本プロレスに移り、長州らの新日本プロレスUターン後は全日本プロレスに残り、ジャンボ鶴田との「五輪タッグ」で活躍しました。その後、天龍のSWSでは崩壊の元凶となり、その後のインディー団体でも、再び長州と合流したWJでも金銭トラブルに見舞われます。そして引退後は、右足の切断です。❤❤❤

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