「竹田の子守唄」

 あの小田和正さんが、プロを目指そうとしたわけはあまり知られていませんね。彼はジ・オフコース」というアマチュアバンドで、一生懸命バンド活動をやっていました。彼はプロになろうなどという気持ちは、これっぽっちも持っていなかったんです。いよいよ就職も迫ってきて、これ以上だらだらと活動を続けるわけにはいかない、ここいらが潮時ということで、コンテストに出て、それを最後の記念に活動を終了しようと企てたのです。小田さんたちの「ジ・オフコース」は、東北代表として全国大会に駒を進めます。運命の1969年11月2日、場所は新宿厚生年金会館、第3回ライト・ミュージック・コンテスト。全国を7つのブロックに分けて地区審査を行い、東京で全国大会を行う、ヤマハが主催する全国最大規模のアマチュアバンド・コンテストでした。そこで出会ったのが「赤い鳥」でした。

 「赤い鳥」は、5人組のフォークバンドです。「赤い鳥」という名前を聞いた時から、嫌な予感はしていた、と小田さんは述懐します。その当時は横文字がついたバンドがほとんどだったので、バンド名が何か自信ありげで挑発的な気配を感じた、と言います。ついでながら、そのとき九州代表で参加していたコーラスグループ「フォーシンガーズ」が、後のチューリップ」となる財津和夫さんのグループでした(6位)。さて、コンテストが始まって、トップバッターがこの「赤い鳥」でした。彼らの演奏が始まった途端に「負けた!」と確信したと言います。その曲が「竹田の子守唄」です。唄っていたのは、稀代のボーカリスト山本潤子さん(小田さんは敬意を込めてジュンコババアと呼びます)。予想通りに、「赤い鳥」が見事グランプリを勝ち取り、小田さんたちは2位でした。自分たちよりうまいヤツがいた…。一番うまいと思っていたのが、打ちのめされます。全国大会で優勝して、それで解散、と設計図を描いていたのが、もろくも崩れ去るわけです。こうなると、負けて、この中途半端な気持ちのまま、引き下がることができなくなったんですね。活動続行が決まります。こうして小田さんたちはプロになっていったのです。もし「赤い鳥」がいなかったら、後のあの名曲の数々は生まれなかった、ということです。

 さて、その小田さんたちを打ちのめしたのが、この「竹田の子守唄」です。この曲は京都、大阪の複数の被差別部落に伝わる守り子歌でした。住井すゑの『橋のない川』が舞台化される際、京都の竹田地区で採集した民謡を編曲して使ったもので、それが竹田地区の部落解放同盟の合唱団のレパートリーとなり、フォーク歌手達に「竹田の子守唄」とされ、広まったものです。そういう事情から、日本の放送局はこの楽曲を放送したがらなくなり、放送禁止歌として長い間封印されることになった、という哀しい歴史を持っています。⇒詳しくはコチラ  小田さんを打ちのめした 山本潤子さんの圧倒的なボーカルと、彼らの見事なハーモニーを堪能してください。

 陸上の世界では、抜きつ抜かれつデッドヒートを繰り広げると、いい記録が出る、独走状態では記録が出ないんだそうです。学校でも、こういう良きライバルがいると、成績も伸びるようですよ。また、お山の大将ではなくて、「この人にはかなわない!」と思えるすごい人に出会うことが、その後の人生に大きな影響を与えることがある、という話を授業でしてみました。大学選びも、どこでもいいではなくて、そういう環境を求めて、真剣に検討したいものですね。

カテゴリー: 私の好きな芸能人 パーマリンク

コメントを残す