渡部昇一先生のエピソード(26)~師との出会い

 旧制中学時代の故・渡部昇一先生は、修練(操行)」の点が「良」の生徒でした。このことの意味はちょっと今の人には分からない世界だと思いますが、「修練 秀」が優等生、「修練 優」が普通、「修練 良」は担任に「にらまれている」生徒、「修練 可」というのは停学などの処分を受けた生徒、という意味です。渡部先生は当時、この「修練 良」のために、毎日毎日クソ面白くもない思いで学校に通っておられました。担任(英語の先生でした)ににらまれた理由は、授業中に机のふたをそーっとあけて、小説を読んでいたのを見つかったためでした。一回目は(『三好清海入道』)鉄拳制裁を頭に一つ食らって、叱られただけ。二回目は(佐々木杜太郞『名作主水捕物帳』)昼休みに読んでいたのに、その担任の先生は鉄拳を食らわせたうえに、教壇の横に座らせて、「退学しろ」といってききませんでした。ようやく謝って許してもらいましたが、その後はすっかりにらまれてしまい、学校が何をやっても面白くなくなってしまったのです。何となくこわいだけの存在になってしまっていました。この先生に取り上げられた小説の何冊かを、後に先生は、市内の古本屋で買い戻しておられます。実にあきれた話ですね。

 そんな時に、今もなお「人生の師」と仰ぐ故・佐藤順太(さとうじゅんた)先生との出会いが巡ってきます。先生は一度隠退された身でしたが、戦後で英語の教員が不足したために、老躯をいとわず再び旧制中学の教壇に立つことになられたのでした。佐藤先生は士族の生まれで、旧制中学に入ることなく、検定試験で東京高師(後の東京教育大学、今の筑波大学)に入られ、英語を専攻し、英語教師になられました。先生は猟銃と猟犬に関しては日本の権威であられましたし、著書もありました。戦前の三省堂の百科事典の猟犬と猟銃の項目の執筆者になっておられたほどです。日本刀についても詳しく、刀剣の鑑定には定評がありました。また東西の古典を日常的な教養としておられました。先生は本物の学者で、本物の教養人でした。まだ15,6歳であった渡部先生の、先生を敬愛するという潜在能力、また学問を愛するという潜在能力を引き出してくださったのは、この60歳ぐらいの佐藤順太先生でした。当時、学校では理科コースと文科コースに分かれ、渡部少年は理科コースにいたのですが、佐藤先生の英語の授業を受けてからは文科に進むことに決めました。特に楽しかったのは、先生のクラスで読んだフランシス・ベーコンの随筆集『勉強について』で、表面をさっとなでるように訳してどんどん先に進むという安易なやり方ではなく、例えば、通常の辞書では通り一遍の意味しか出ていないので、文意にしっくり来ない場合が多い。そんな時にはCOD(コンサイス・オックスフォード・ディクショナリ)を紐解いて、的確な解釈を丹念に探し求め、一つひとつの単語の意味を入念に分析し、わずか1行の文章で語られている内容をこれでもか、これでもかと掘り下げられました。渡部先生もすぐに古本屋でCODを買い求め、辞書を丹念に引いて勉強されました。長い人生経験を通して「こうしたケースもある」あるいは「ああいったケースもある」とウンチクを語りながら、さまざまな方向に限りなく解釈を拡大していかれるのです。したがって、1時間の授業で、教科書が一行も進まないことも珍しくありませんでした。勉強とはこれほどスリリングで面白いものかと思いました。極端な場合は、一つの単語の解釈にこだわって授業が終わってしまうこともあったほどです。佐藤先生は、言わば教材を通して「人生論」を語っておられたわけであり、生きた知識を同時に授けてくださっていたのです。それらの知識は、試験に直接的な効果を発揮することは少ないでしょうが、その後の長い人生を生きていく上で、必ずや有形無形の価値を発揮することになります。特に授業の途中での雑談には引き込まれていくのでした。わざわざ手を挙げて質問する必要のないように、渡部少年は教壇のすぐ前に席を取り、先生にすぐ提案したり、質問したりすることができるようにしました。クラスの授業なのに、先生と対話ができるようになりました。渡部少年は、佐藤先生の授業には他のクラスの授業まで出て、風邪をひいた時も、先生の授業だけを聞くように登校し、その時間がすむと帰宅されました。

▲恩師・佐藤順太先生

 こうして二年半以上も教えを受けて、さらにはご自宅へうかがい親しく謦咳に接するようになり、ますます「わが師」という思いを強めました。先生の隠居所は決して広い建物ではありませんでしたが、玄関の脇が先生の書斎になっていて、天井まで和漢洋の木版刷りの書物が細い木箱に入れてうず高く積んでありました。図書館でしかお目にかかったことのないような分厚い辞書が置かれており、イギリスの百科事典も並んでいました。先生はよく、有名な学者の意見でも、「あれは何を言っているかわからぬ」ということをはっきり述べられたものでした。「わかったふり」は決してなさらない。実感としてそう思われたことは、学界の通説にかかわらず、そのように述べられました。先生はまことに「己に忠実」な方であられました。佐藤先生を神のごとく崇拝していた渡部先生は、それ以降「わからない」と言うことを一切怖れなくなりました。上智大学に進学されてからも、夏休み、春休み、正月休みに帰省すると、自分の家よりは、先生のお宅で夜の時間を過ごすことが多いくらいでした。師を愛し、学問を愛し、「わからない」ことを怖れずに、知識を愛することができるようになったのは、佐藤先生のおかげであったと、渡部先生は振り返って感謝しておられます。自分の先生を敬愛することができ、知識を愛することができれば、勉強が生き甲斐になってきます。「佐藤先生のごとく老いたい」というのが渡部先生の念願となりました。そして、その夢を実現されたのでした。♥♥♥

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