ジャイアント馬場さんの思い出

  さかのぼること、1999年1月のことです。虫が知らせたのでしょうか。当時担任していた理数科1年生の学級通信「あむ-る」に、二週間続けてジャイアント馬場さんの思い出話などを書きました。どうしても書いておきたかったのだと思います。すると、1月31日午後4時4分、結腸ガンで馬場さんが亡くなってしまいました。61歳の若さでした。不思議なことがあるものですね。

 私は、馬場さんの「生き方」に学ぶべきこと が沢山ありました。今日はそれを書くことにします。以前出雲ドームに巡業に来 られた時に、特別リングサイド席を2人分2ジャイアント馬場ge用意してもらったことがありました。残念ながら私は校務で見に行けなかったんですが、その代わりに私の担任していた生徒が2人厚い もてなしを受けました。本当に人情に厚い人でした。▲トップロープに上るのに1分以上かかって、倒れている相手が待ちくたびれていた、という伝説のある馬場さん。還暦を過ぎてボロボロの肉体を酷使しながら、「自分たちにはファンがスポンサーだ」と、何よりもファンを大事にした馬場さんの雄姿を見 ることは、もうできません。それどころか馬場さんの愛した全日本プロレスはガタガタになってしまいました。リーダー不在だからです。▲「練習する、強くなる、そして負けない」これが馬場さんのポリシーでした。人はそれを王道と呼びました。決して「ぶっ殺してやる」などとは言わず、人と争うことは好きでない、と語っておられました。ここがアントニオ猪木と違う所。よく馬場と猪木とどちらが強い?と聞かれるのですが、2人は若い頃、16回も戦っています。16勝0敗。全て馬場さんの勝ちです。▲馬場さんはハードな巡業の合間に実によく 本を読みます。他のレスラーはみんなマンガを読んでいるのに、石川 淳『狂風記』のような文学通をうならせる小説を含めて、歴史小説(侍モノ、剣豪モノ)まで、年間250冊から300冊も読むといいます。油絵も玄人はだし。洋画コレクションも一級品だと言います。▲馬場さんの葉巻好きは有名だが、ある時から葉巻をすっぱりとやめました。「クイズ世界はSHOWbyショーバイ!」の出演中、司会者の逸見政孝さんがガンで入院した際に、「僕にできることはこれぐらいだからなあ」と、全快祈願をして、葉巻だちをしたのです。▲松山千春さんの父が死んだとき、馬場さんはわざわざ北海道足寄町まで出向き、告別式に参列しました。松山の姉が急死した時、松山さんは北海道に帰らず、東京ドームで行われた全日本プロレスのゲスト解説をしました。「約束だったから」という松山に、馬場さんはいたく恐縮し感激していたといいます。2人の義理堅さを感じる話です。▲「阪神淡路大震災」の時に、ファンクラブに入っている神戸在住の人たちに一人ずつ電話をかけ続け、安否を心配したといいます。電話をも らった人たちは皆感激したといいます。また被災地に救援物資を持って慰問に駆けつけたのも有名です。ただし目立たないように(!?)さっと帰っていくのです。▲プロモーターとしての彼は、世界的 に信頼されていました。馬場のためなら、というプロモーターも多いのです。「絶対に人を裏切らない」という馬場さんの生き方が共感を与えたのでしょう。そんな馬場さんも裏切られた人間は二度と使わない(天龍、大仁田)。▲馬場さんが敬虚なモルモン教徒(戒律が厳しい)であることは案外知られていません。▲ここ一番というときに彼が必ず出す必殺技が、相手をロープにとばしてのジャ ンビングネックブリーカードロツプという技。彼がNWAのベルトをジャック・ブリスコやハーリー・ レイスから奪ったのもこの技でした(裏で密約があって、再戦ではちゃんと負けるようになっていたとは当時知りませんでしたから、熱狂して応援したものです)。16文キックからこの技へとつなぐのが必殺フルコースでした。スタン・ハンセンのウェスタンラリアット、三沢のタイガードライバー、武藤の足4の字固め、橋本のDDT、蝶野のSTF、確かに一流レスラーは皆オリジナルの必殺技を持っていますね。最近では、オカダのレインメーカー、鈴木のゴッチ式パイルドライバー、永田のバックドロップ・ホールドなどでしょうか。

 そんな馬場さんの作った全日本プロレスは、秋山社長のもと、出直すことになりました。馬場さんの奥様の元子さんも応援するとのこと。頑張って再興して欲しいとは思いますが、いったんはずれてしまった箍は元に戻すのは至難の業です。見通しは暗いと思っています。

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