東山魁夷の白い馬

 私は「東山魁夷」(ひがしやまかいい)画伯の絵の熱狂的なファンです。人物を描くことはなく、ひたすら自然の深い美しさと向き合い、自然そのものだけを描き切った風景画が有名ですね。そこには自然の中にある「生命」への感謝と畏敬の念が込められているので、観る人の心を打ちます。画伯自身が次のように語っておられます。

 私が好んで描くのは、人跡未踏といった景観ではなく、人間の息吹きがどこかに感じられる風景が多い。しかし、私の風景の中に人物がでてくることは、まず無いといってもよい。その理由の一つは、私の描くのは人間の心の象徴としての風景であり、風景自体が人間の心を語っているからである。

 東山画伯の絵には、有名な「東山ブルー」の色使いが見られます。私は「青」が大好きな色なので、余計に惹かれるのかもしれませんね。1955年~1971年まで画伯の描いた、印象的なあの青緑色に輝く風景画には、一切の人物どころか、動物も一切描かれることはありませんでした。それは、彼の言う「風景自体が人間の心を語っている」からにほかなりません。

▲東山魁夷「白馬の森」

 ところがです。1972年に描かれた1枚の絵の中に、突如として「白い馬」が現れるのです。それまでの東山画伯が見事に捕らえた自然の雄大さと美しさといったものとは違って、何かメルヘンチックな要素が加わり、観る者の心に何かを意識的に語りかけてくるようです。

 ある時、一頭の白い馬が、私の風景の中に、ためらいながら、小さく姿を見せた。すると、その年(1972年)に描いた18点の風景の全てに、小さな白い馬が現れたのである。白い馬は、たとえ協奏曲ならば、独奏楽器による主題であり、その変奏である。協奏する相手のオーケストラは、ここでは風景である。白い馬は風景の中を、自由に歩き、佇み、緩やかに走る。しかし、いつも、ひそやかに遠くの方に見える場合が多く、決して、前面に大きく現れることはない。この小さな白い馬の出現は、私にとって思いがけないことである。一切の点景を排した風景を描き続けてきた私であるし、人もそれを私の特色と思っているに違いない。

 ここに描かれた白い馬も、森の木立ちも、現実なものではなく、私の空想から生まれたものです。さて、この馬は何を表しているのかと、時々、人から聞かれたことがあります。私は「白い馬は私の心の祈りです。」と答えるだけで、見る人の想像にまかせてきました―『東山魁夷館所蔵作品集』(信濃毎日新聞社)

 それ以上に、白馬の存在を説明できる言葉は見つかりませんでした。つまり、この「白馬の森」を描いた63歳にして、彼にはそれまで見えなかった・・・“何か”が初めて見えたに違いありませんが、彼はそれをあえて語らなかったのかも知れません。

 「見る人の想像にまかせてきました。」と語るように、よく考えてみれば、それは“当たり前”のことだったのです。何故ならば、絵や彫刻に限らず、映画や小説までもが、それに出会った人がどう感じたかに他ならないいからです。つまり、作者の解説よりも、その絵と対面した時の自分の心が感じる“モノ”を、何よりも大事にしなければならないからです。

 私は今から十年ちょっと前に自宅を新築する際に、清水の舞台から飛び降りる気持ちで、この東山魁夷の白い馬の絵を2枚(「緑響く」「白馬の森」)を、大阪の画商から買いました。いつも家に帰ると、リビングに飾ってあるこの絵を見てホッとするんです。できることなら18点全部揃えたいんですが、さすがに高くて手が出ません〔笑〕。

 下の「緑響く」は、長野県の御射鹿池をモチーフにして、1982年に発表されました。樹々の中を白馬が進む姿が湖面に反射して、幻想的な調和を醸し出していますね。魁夷が愛した作曲家モーツアルトのピアノ協奏曲・第二楽章の旋律もインスピレーションになっていることを、作者自身が語っています。自然の雄大さや馬の生命力、穏やかでいてかつ張り詰めた空気感など、心情が風景に見事に投影された作品として、私は大好きです。♥♥♥

▲東山魁夷「緑響く」

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