「果報は練って待て」?

◎「果報は練って待て」の自画自賛

 2月(東京)と6月(岡山)の「共通テスト」のオンライン講演の中で、私は「果報は寝て待て」ということわざを引用して、「共通テスト」に関する限り、寝て待っていても点は取れるようにはならない、「果報は練って待たなければいけません」「果報は練って待て」です、というギャグを飛ばしました。このことに気付いていただけたかどうか分かりませんが、これは我ながら傑作の意味深な快心のギャグであったと自画自賛しています。今日はそのギャグの解説です。

 「寝て待て」という後半の表現から、「幸運の訪れというのは自分ではどうにもならないものだから、辛抱強く待つことが重要だ」という意味に勘違いしている人も多いんです。しかしこれはそのような消極的な意味ではありません。のんきに何もしないのではなく、自分の力でできる限りのことをしたうえで、どのような結果がもたらされようとも動じずに結果を待つ、という心境を表したことわざです。そもそも「果報」というのは、本来は「前世での行いの結果として現世で受ける報い」という仏教用語です。さまざまな縁のもとで、原因があって結果がある、という仏教の考え「因果応報」とも関係しています。幸運も不運も、縁と自分の行いのよしあしに左右されるものですが、よい行いをしてもすぐに幸運が巡ってくるとは限りません。しかし、あきらめずによい行いを続けて、幸運が巡ってくるのを待つという考え方こそ、「やれるだけのことをした後は結果を点に任せよう」「できるだけのことをして結果を待つ心境」というこのことわざの真の意味に近い態度ということができるでしょう。「人事を尽くして天命を待つ」という境地にも近いと言えるでしょう。この「果報は寝て待て」のことわざの真の意味を踏まえた上でのギャグ、「果報は練って待て」でした〔笑〕。「共通テスト」では、1分間に150語の英語を読む速読力、大問を解くための効率的な戦略、複数の情報から正解を絞り込む練習、英文を正確に読むための基礎的な文法力、時間との闘いに負けない集中力、など相当の訓練を要する要素が数多く含まれています。じっとしていてもこれらの力は身につかないのです。そこら辺を鋭く突いた、我ながら、なかなかよい出来映えのギャグでした。

 ちなみに先日(6月25日)の講演で飛ばしたギャグは、「花より単語」(←花より団子)「アクセント身につかず」(←悪銭身につかず)でしたが、松江に帰ってから、「あれは良かった」と数人の先生から、アンケートであるいは直接メールで、お褒めの言葉をいただきました〔笑〕。次回への励みになりました〔笑〕。♥♥♥

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