私は英語の教員なんですが、社会科の教員免許も持っていまして、歴史教育にも関心があるんです。この頃の若い人たちの間では、12月8日と言ってもピンと来ない人も増えてきました。「ボーナスの日です」と言った先生もいました〔笑〕。12月8日になると、アメリカでは「日本は油断がならない、真珠湾を忘れるな!」「日本人は狡猾だ」ということがよく言われます。日本がこうやって悪役にされがちなのは、元をただせば、真珠湾を何の前触れもなく奇襲攻撃したことに遡ります。でも実際には奇襲攻撃するつもりなど、日本はこれっぽっちも思っていませんでした。ちゃんと30分前には通告する予定だったんです。当時は、開戦前夜のような状況が続いており、すでにアメリカ側からは事実上の最後通牒「ハル・ノート」が渡されていました。ところが、日本側の通知は、真珠湾攻撃から1時間近くも経ってからアメリカの国務省に届けられました。当時のルーズベルト大統領は、日本側のこの失態を巧みに利用して「日本は真珠湾を奇襲した、卑怯でずる賢い国民だ」とアメリカ全土だけでなく、全世界にも訴え、日本人は騙し討ちをする狡猾な民族だ、という負のイメージを植え付けることで、戦意を高揚することに成功するのです。
太平洋戦争の発端となった旧日本軍の真珠湾攻撃から82年となり、ハワイの真珠湾に面した「パールハーバー国立記念公園」で、今年も犠牲者を追悼する式典が開かれました。アメリカ軍の関係者や第二次世界大戦の退役軍人など2,000人余りが出席しました。式典では、真珠湾への攻撃が始まった午前7時55分に合わせて出席者が黙とうし、死亡したおよそ2,400人を悼みました。そして、アメリカ軍インド太平洋軍のアキリーノ司令官が「当時を経験した先人たちの教訓は、まず真珠湾攻撃を忘れるなということ、つねにアメリカは警戒を解いてはならないということ、そして常に戦い、勝つための準備をしなければならないということだ」と述べ、国防を通じて平和を守る決意を強調しました。
よく晴れた日曜日の朝の出来事でした。1941年12月7日午前7時55分(日本時間12月8日午前3時35分)、ハワイ諸島のオアフ島の海軍基地を、日本軍の航空部隊が奇襲しました。いわゆる「真珠湾攻撃」です。今でもアメリカ人たちには「Sneak Attack」(卑劣な攻撃)として記憶されています。12月8日になると、毎年必ずといっていいほど、「卑劣な日本人」が話題になるんです。

▲日本軍機の魚雷攻撃で爆発炎上するアメリカの戦艦「アリゾナ」
太平洋艦隊が誇る「カリフォルニア」「ウェスト・バージニア」「オクラホマ」そして「アリゾナ」など6つの戦艦が、日本軍機が投下した爆弾や魚雷によって、またたく間に黒煙に包まれました。犠牲者はアメリカ側の約2,400人に対し、日本側は約60人だったといいます。鮮やかな戦果でしたが、大きな問題が発生しました。「真珠湾攻撃」の狙いは、主要基地である真珠湾を攻撃することで、アメリカ人の戦意喪失を誘い、短期決戦に持ちこむことでした。しかし、それは全く逆の結果になってしまったのです。
そもそも日本の開戦通告は、攻撃の30分前にアメリカ側に届くはずでした。しかし、駐米大使館が本国から受け取った暗号文の解読に時間がかかってしまい、実際にアメリカ側に渡ったのは攻撃の40分後になっってしまいました。真珠湾攻撃は「卑怯なだまし討ち」となり、ルーズベルト大統領率いるアメリカ政府は、「Remember Pearl Harbor(リメンバー・パールハーバー 真珠湾を忘れるな)」のスローガンを掲げて、アメリカの世論は、一気に開戦へと傾いていったのです。「日本は奇襲攻撃をしてから、のうのうと断行通知を持ってきた。これほど卑劣で狡猾で悪辣なギャングは見たことがない」ということを印象づけたのでした。
この時、断行通知が遅れたことについては、戦後長い間、「大使館員の不慣れなタイプのために予定が遅れたのだ」とされてきました。当時の関係者が、東京裁判でそのように証言したからでありましたが、事実は全く違いました。今にも開戦となろうかという緊迫した状況下において、日本大使館の連中は一人残さず、夜になったら引き上げてしまっていました。同僚の送別会が行われることになっていたのでした。翌朝大使館に出勤してみると、重大文書が届いていました。内容を解読してみると、まさに断交の通告です。大使館員が震え上がったのは言うまでもありません。その緊張のせいか、あるいは前夜当直も置かずに送別会をやったという罪の意識からか、電文をタイプで清書しようと思っても間違いの連続でいっこうにはかどりません。そこで彼らのやったことは、最悪の判断でした。電話して「午後1時の約束を,もう1時間延ばしていただけないか」と頼んだのでした。外務省は「午後1時に渡せ」と言っているのに、独断で1時間も遅らせてしまったのでした。「外交文書はタイプで清書しなければならない」という国際法などどこにもありません。タイプが間に合わなければ、手書きの文書を持っていって、とにかく指定された午後1時に「これは断交の通知です」と口頭で渡すべきだったのです。きれいな書面が必要なら、後ほど持って来ます、とでも言えば良かったのです。いやしくもワシントン大使館にいるような外交官といえば、エリート中のエリートです。その連中がこのていたらくだったとは!そして大使館員の間では、「あの晩のことは、一生涯誰も口にしない」という暗黙の掟が出来上がったようです。誰にも真相を話しませんでした。彼らは帰国してからも、みな偉くなりました。戦後外務次官になった人もいるし、国連大使になった人もいれば、勲一等を天皇陛下からいただいた人もいます。

▲今から32年前の「あむーる」 当時は毎週発行していた
長い間隠されてきたここら辺の秘密を、尊敬する故・渡部昇一先生(上智大学名誉教授)は、今から30年以上も前に『ニューヨーク・タイムズ』に投稿しておられます。記事の題名は「A COSTLT FAREWELL PARTY(高くついた送別会)」でした。私は当時、松江南高校の生徒たちに、この記事のコピーを学級通信「あむーる」で配布をしています(写真上)。
渡部先生は、当時の大使館にいた人々の名誉を、外務省は公式に褫奪すべきだと主張しておられました。外務省に関係する人々、現職の外務大臣に会うたびに、名誉褫奪のことを力説してこられましたが、外務省にとっては「国益」よりも「省益」のほうがずっと大事なのが分かってきた、と書いておられます。「日本の外交官というのは、みんな親戚なんです。昔から、外交官になるような人は外国語ができなければなりません。そうなると、本当に外国語がうまいのは外国で育った子どもです。ところが、今日ならいざ知らず、ちょっと前までは外国で生まれ育つというのは、外交官の子ども以外にはあまりいない。それで結局、外交官の息子は外交官になり、外交官の娘は外交官に嫁ぐということになりました。だから今や、外務省というのは親戚の寄り合いのようなものなのですよ」という関係者の証言を紹介しておられます。親戚の名誉を褫奪するわけがありませんから、永遠に無理な話ということになります。そしてこの事実は、未だに知らない人が多いという状況が続いています。♥♥♥
【追記】 Pearl Harborを「真珠湾」と訳すこと自体にも、いろいろと議論のあるところです。『産経新聞』の「産経抄」も話題に取り上げていましたね。harborには「港」という意味しかありませんから。この問題も調べてみると面白いと思いますよ。Pearl Harborの「Harbor」を正しく日本語訳すれば「港」であり「湾」ではないので「真珠湾」という地名は存在しないということになります。
英和辞典を調べてみると
Bay: (gulfより小さいがcoveより大きい)湾
Harbor: 自然の港
Port: (荷物の上げ下ろしが出来る) 商業港
と説明されており、Pearl Harborを「真珠湾」と訳すのは誤りであり、正しくは「真珠港」ということになります。にもかかわらず 誤訳された「真珠湾」という地名がなぜ日本で定着してしまったのか?歴史研究家・原 徳三氏は日本エッセイストクラブ編『ネクタイと江戸前’07年版ベストエッセイスト集』(文藝春秋、2010年)に収められたエッセイ「真珠湾はない」の中でその理由を書いておられます。簡単に要約すると以下のような内容です。
Pearl Harborが攻撃された昭和16年12月8日に、ホワイトハウスは「パールハーバーが攻撃された」と発表した。この発表(外電)を日本の新聞社が誤訳して「ホワイトハウスは日本軍が真珠湾を攻撃したと発表」の如く報道し、それ以降「真珠湾」が一人歩きを始めた。「真珠湾」の方がゴロが良いと思ったのか、「真珠港」or「真珠湾」のどっちだって構わないと思ったのだろうが、固有名詞を誤ったままにしておくのは乱暴な話である。普通名詞の「林」を「森」と言っても 目くじらをたてることはないが、固有名詞(人名)の「林さん」を「森さん」と呼ぶのは乱暴である。東京湾内の横浜港をアメリカ人が英語で横浜湾と呼ぶなら勝手すぎる。日本人の多くが長い間使い続けた「真珠湾」を、今更改めることは不可能と思うが、実在してもいない地名を敢えて使っているという後ろめたさを、せめて頭の片隅にとどめておいてほしい。
しかし事はそう簡単な問題でないことは、田野村忠温「真珠湾の日中名称小史」(2016年)を読むと分かってきます。19世紀以降、真珠湾は複数の英語名で呼ばれており(Pearl Bayを含む)、「真珠湾」がいちがいに誤訳とは言えない事情が明らかになってきます。
関連